天安門事件略譜


1980年頃ー

鄧小平(とうしょうへい)が開始した改革・開放政策により農業、工業の経済体制が大きく転換。文化大革命(1966〜76)以来の高い失業率が減少し、莫大な利益を得る人々が出現。いっぽうで、急激な物価高騰などが生じ、80年代なかばには政治体制の改革を求める声が増大した。

1987年

共産党の党大会で「政治体制改革案」採択、これに基づく政治改革が始まる。しかし、各地で混乱が生じたため、党指導部内で政治的安定を求める声が強くなる。

1988年末

経済改革を強力に推し進めるためには政治的安定が必要という意見が台頭。政治改革は先送りにし、権力を集中させて経済力の発展を図るべしとするこの主張に対し、民主化推進を最重要とみなす改革支持派の知識人層が激しく反論。

1989年1月ー3月

改革派知識人らにより、1979年の民主化運動の際に投獄された魏京生(ぎきょうせい)釈放を求める署名運動が行われ、文芸界からは批評家の李它、詩人の芒克、映画界からは田壮壮が署名した。これに影響を受けた北京の学生の中で、民主化を求めるグループが組織される。

1989年4月15日

改革派の指導者胡耀邦(こようほう)前総書記が死去。その追悼集会をきっかけとして、北京の学生を中心とした大規模な民主化要求運動が展開される。共産党中央指導部はこの動きに圧力をかけようとし、それに反発する形で学生たちの運動は拡大化、組織化された。

1989年4月末―5月

対話を通しての民主化実現を望む学生たちに対して、共産党当局は実質的にこれを拒否。その後の双方の強健な対応により対立が深刻化。また、学生たちによる運動に理解を示した趙紫陽(ちょうしよう)総書記らと、強硬な姿勢での対峙を主張する鄧小平、李鵬(りほう)ら長老派との間の党内闘争が深刻化する。民主化運動を支持する北京市民による100万人デモが行われる。

1989年5月16日

訪中したゴルバチョフソ連共産党書記長との対談で、趙紫陽趙は鄧小平が絶対的な決定権を掌握していると暴露し、党内派閥間の対立が浮き彫りとなる。

1989年5月20日日

趙紫陽発言を受けて、学生たちの間で鄧小平独裁と権力当局への批判が公然化。当局は北京市内に戒厳令を発令。人民解放軍が集結し、市街地を包囲。

1989年6月3日未明―4日

共産党指導部が戦車隊を投入し武力により市街地および天安門広場を制圧した。この天安門事件による死者数は当局側発表で約300名、学生側発表では約1万名だが、実際の死者数は現在も不明。事件の模様はメディアを通して世界中で報じられ、西側諸国による強い非難を受けた。民主化を要求した市民らの多くが投獄され、多数の学生、知識人が亡命を余儀なくされた。

1992年

鄧小平は停滞した経済を活性化するため、市場経済化を提唱して外資を大量に導入し、高度経済成長を実現、そのいっぽうで、共産党の権威主義的支配体制の強化を図り、現在に至る。

(参考文献:『岩波現代中国事典』)

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