1960年、ぼくは上京した。それまでアバンギャルド芸術には一度も触れたことがなかった。その最初の洗礼が忘れもしないドナルド・リチーの映画だった。
それは単に「衝撃的だった」という言葉ではいい表せないとてつもない危険なものを感じた。今では映画の内容までは想い出せないが、その断片だけは不思議と甦る。だけどその幻影化した映像の断片はリチーさんの映画のそれなのか、あるいはぼくの夢の一場面だったのかさえ区別がつかないほど、ぼく自身と融合してしまっている。
 リチーさんの映画を最初に観た劇場の座席の位置まではっきり想い出せる。だけどそれを観た劇場はどこだか記憶にない。ぼくは劇場の後方の右端でひとりぽつんと画面を食い入るように観ていた。作品の出来がよいのかどうかというようなそんな冷静な判断は完全に奪われていた。
 リチーさんの映画を観るまでは、ぼくはいわゆる商業映画しか知らなかった。ゴダールもアントニオーニもレネも誰も知らない時だった。ぼくの中にまだ芸術という悪魔が棲みつく前のことであった。
 この映画がぼくには悪魔に見えたとしても無理はなかった。この映画を撮った人はきっと悪魔だとぼくはその時思ったに違いない。そしてこの悪魔は、ぼくの中にまだかすかに息づく無垢な少年の塊に手を懸けようとしているのをぼくは直感した。魂が呼び起こされるそんな瞬間から遠ざかって久しかったのでぼくは恐怖した。いや恐怖したからこそ魂がひょいと首をもちあげたのかも知れなかった。
 頭で理解できるものばかりがぼ
くの周囲をとりまいている時、このような超感覚世界に接触してぼくはぼくの大脳の旧皮質と回路を結んでしまったのかも知れなかった。こんな瞬間、人は肉体から離れてしまうような気がする。ぼくのアストラル・ボディは現実と分離されたもうひとつの現実を体験する。

 リチーさんの映画はアストラル・ムーヴィーだ。映画が夢のようであったり、詩のようであったり、死のようであったりするのはそのためである。夢も詩も死もアストラル界の産物である。想像力あるいは芸術的創造は特別頭をひねって作りだすものではないようだ。そんな感覚をぼくはドナルド・リチーの映画によって示されたように思えた。
 怖かったがおかしかった。恐怖のために笑ったのかも知れない。笑いは未知のものに対した時よりも既知のものに対した時にやってくるものではないだろうか。リチーさんの映画をぼくらはすでに知っていたのである。魂の記憶の封印が切られた瞬間、ぼくは恐れと笑いを同時体験してしまったのである。
 恐れはまだ肉体に執着を残した部分、笑いは肉体からの離脱準備OKのサイン

だ。この両者の間のバルド状態で、ぼくの意識は震動を開始したのだった。もうちょっとで飛べるところだった。その時は飛べなかったが飛べるということを知ったのである。
 飛ぶことは狂気を体現することでもある。芸術家にとって狂気とは? アストラル界と遭遇することなのか、宇宙の愛に抱かれることなのか、死を喜ぶことなのか、神とのパイプを知覚することなのか、大脳の新皮質を断ち切ることなのか。ぼくが初めて暗闇で出会った狂気がドナルド・リチーだった。
 リチーさんは50年代の終りから60年代にかけて堰を切ったように立てつづけに凄い映画を作ってそのまま止めてしまった(?)伝説の映画作家である。
これはなかなか真似のできるものではない。ぼくはリチーさんは啓示によって映画を作らされたんだと思っている。だから、リチーさんはあの頃からずっとぼくは予言者だと思っていたが、数年前イタリアのジェノバで久しぶりに観てその感を一層強くした。
(よこおただのり・画家/草月シネマテーク「ドナルド・リチー映像個展」パンフレットより、1989年)

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