Q: 初めに、プロフィールを教えて下さい。
A:映画の仕事をする前は、バレエを8年間続けていました。トラン・アン・ユン監督の『夏至』(99)で初めて映画に出演した当時はまだバレエを勉強している学生で、女優の仕事を続けようとは考えていませんでした。でも、卒業後に『コウノトリの歌』(01)に出演し、そのあとハリウッド映画『愛の落日』(02)のオーディションに合格して、映画の仕事はこの『モン族の少女 パオの物語』で4本目になりました。

Q :実際にハーイ・イエンさんにお会いすると、映画の中のパオとはかなり印象が違いますが、どんな役作りをしたのでしょうか。
A:撮影開始の1年前から舞台となった山岳地の村に通って、現地の言葉を勉強し、歩き方、走り方、薪の背負い方や割り方などを身につけました。この映画はセリフが少なく、目や体の動きで演じる部分が多かったので、この場所に住んでいる女の子になりきることがとても重要だったのです。彼らの言葉ができるようになってみて初めて、住むところや生活は違っても、私と同じ年頃の女の子は似たようなことを考えているということがわかりました。
  
Q :山岳地での撮影のエピソードがあれば教えて下さい。
A :ロケ地はハノイから車で2日のところで、私たちが滞在していたホテルからも車で片道3時間かかります。しかも映画の中でご覧いただいたような細い山道を通っていくのです。市場は1週間に1回しか開かれないので、約80人の撮影隊の食料を確保するのだけでも大変でした。撮影を担当したオーストラリア出身のコーデリア・ベレスフォードが、初めてベトナムに来て食べ物が合わなかったり、虫に刺されて救急車で運ばれたスタッフがいたり、険しい山道なので機材もあまり持っていかれなかったり、苦労はたくさんありました。監督であり、私の夫でもあるゴー・クアン・ハーイはいろんな人に「こんな大変なところで映画を撮るなんて」と言われていましたが、この土地の風景の美しさと人々の暮らしぶりの素晴らしさを世界中の人に伝えるためには努力を惜しみませんでした。

Q :映画の中では、パオの父親の最初の妻は跡取りとなる子供を産むことができず、別の女性が家にやってくるわけですが、このような家族制度の因習について、またその中での女性の立場についてはどう思われますか?
A :もちろん現代では根強く残っているわけではないとしても、家の流れを守らなくてはいけないという慣習は続いていると思います。今回撮影を行った土地には、現在でも一人の男性に何人かの奥さんがいて、一軒の家にみんなで住んでいるというケースもありました。印象的だったのは、そういう場合でも女性たちが嫉妬をしたり、家族の中でいがみ合ったりしないことです。妻たちが協力しあって家の仕事やお金を稼ぐ仕事をし、男性はお酒を飲んでいるような家もあります。それでも女性たちは抑圧されているとか、嫌がっている様子は見せず、その生活を楽しもうとしているようでした。むしろ彼女たちは、どんな状況でも仕事をしながら歌をうたったり、まるで人生には難しいことなんて何もない、と言っているみたいでした。それが彼らの風俗なんです。 

Q :映画の中で印象的なシーンに、母キアが別の男性といるところをパオが目撃してしまう、 という箇所がありましたが、これはどういうシチュエーションなのでしょうか?
A :この地域で1年に1回開かれる「3月27日市場」(映画の中では「春祭」とされている)で、それは、昔は愛し合っていたけれど結ばれなかった男女が、再会して近況を報告し合うお祭りです。自分の育ての母親が昔の恋人に会っているのを見つけたパオはショックを受けますが、目撃したパオが少女である、というのは大事なポイントです。もし、パオの父親とか、他の大人が見てしまったとしてもそこまでショックは受けないと思います。パオが思いがけなく、父親以外の男性といる母を見かけた、ということが重要なのです。

Q:日本では、一般的な劇場公開の形でベトナム映画をみる機会がまだそれほど多くないのですが、ベトナムの映画産業について教えていただけますか。
A:ベトナムでは、政府から資金が出て映画が作られます。この映画の場合も、まず監督が脚本を書いて文化省に持っていき、それが評価されて制作資金がおりました。でも、国からのお金が十分ではなかったので、「ヴィド・ツアー」という旅行代理店がスポンサーになって、この映画が実現しました。ベトナム映画を巡る状況で一番厳しいのは、ハリウッド映画との競争です。ベトナム映画を一本制作するのと同じ金額で、3-4本から5-6本の映画を輸入することができます。ハリウッド映画を配給する会社は宣伝にお金をかけますが、ベトナム映画にはそれほどの宣伝費をかけることはできないのです。多分そう遠くないうちに、ベトナムの映画界も民営化されるでしょう。最近は民間の映画会社もでき始めました。競争が激しくなればなるほど、映画産業も発展していくと思いますが、そのためにはまずシステムが整備されなくてはいけないでしょうね。
 
Q:これから劇場で『パオの物語』をみる日本の観客に、一番注目して欲しいところはどこですか?
A:この映画を作っているとき、日本で上映したいと思っていたので、実現してとても嬉しいです。私がこの映画の中で一番皆さんにみていただきたいシーンは、養母シムが出て行ってしまう直前に、パオがシムの目をみつめるところです。まさにこの瞬間に、パオがシムの存在の大切さを理解したということを、顔を動かさずに目だけで表現したつもりです。緊張感もあいまって、とてもいいシーンになっていると思いますので、ぜひ注目していただきたいです。

(2006年11月 東京・イメージフォーラムにて)
Q:この作品を作ることになったきっかけを教えて下さい。
A:きっかけは、まずドー・ビク・トゥイの短編小説を読んだことです。一軒の家の中に子供を生んだ母親と、その子供を育てた母親というふたりの母がいて、物語の最後に娘が母親たちの秘密を知る、という小説です。実は、私には似たような境遇の叔母がいたのです。叔母が住んでいたのは、小説の舞台からは何千キロも離れたところですし、このようなことは現代のベトナムでは、普通のありふれた話ではありません。それなのにこんなに離れた2つの場所で同じことが起こっていたということ、女性が自分を犠牲にしているという話があるということを知り、ぜひ映画にしてみたいと思いました。また、モン族の人たちの住む土地、ハザン、ドンバン、メオバック、サパなどを舞台とすれば、雄大で原初的な風景が撮影できる、と思いました。

Q:撮影は実際にモン族の人たちが住んでいる地域で行われたそうですが、苦労話やエピソードなどがあれば教えて下さい。
A:まず山岳地帯に行った時に、その風景と人々の美しさに驚きました。そして、私と妻の(ハーイ・)イエンは、何ヶ月もかかってモン族の人たちの生活?例えば薪のしょい方、草の切り方、畑仕事?を学びました。イエンはモン語を勉強し、モン族の人たちと話ができるまでになりました。あるとき私は、日曜日の朝3時にイエンにモン族の民族衣裳を着させ、市場にいかせました。彼女はモン族の人たちと一緒に薪を売り、周りの人にもモン族だと思われたまま、すべて売り切って帰ってきました。撮影中、特に大変だったのは、スタッフが山の中でみんな虫に刺されてしまったことです。すごく小さい虫なのですが刺されるととても痛くて体中が腫れ上がってしまい、ひどいものでした。

Q:パオと母親たちの物語を通して、観客に最も伝えたかったことは何ですか。
A:パオの育ての母はとても我慢強く、自分の人生を犠牲にして子供を育てます。産みの母はエネルギッシュで、ふたりの子供を産みますが、家族の生活のため家を出て働き、子供たちの気持ちに答えてあげることはできない人生を送ることになります。パオはそのふたりを通してすべてを見、認識します。彼女たちは、それぞれ違った側面を持ちながら、お互いを思い合い、そのために自己を犠牲にするという共通点を持っています。この3人の女性、違ったキャラクターではあっても、本当は深いところで繋がっている1人の女性のように描こうと考えました。

Q:監督は俳優出身でいらっしゃいますが、監督をやろうと思ったのはなぜですか。
A:私は10年生の頃、すでに映画監督になりたいと思っていました。ハノイに映画学校ができたので入学しましたが、当時はまだ監督科はなく、俳優科のみでした。しかし、やりたい仕事の勉強ができるならと思い、脚本や評論、撮影の講義にも出席しました。卒業後も俳優の仕事を通して、ベトナム国内での映画作りのシステムを現場で学び、またベトナムで撮影される外国映画にもたずさわることで、外国での映画製作のやり方も知ることができました。トラン・アン・ユンやフィリップ・ノイスら監督との出会いも、私に大きな影響を与えました。そして、2004年に『モン族の少女 パオの物語』の脚本を政府の映画局に提出し、資金を得て撮影ができることになりました。国営企業に属しているわけでも、国営の映画界社の人間でもない人間に国から映画製作の資金が降りたのは初めてのことです。

Q:日本の観客へのメッセージをお願いします。
A:日本は私にとって憧れの国で、映画を作ったら日本で上映したいと思っていました。日本の人たちには、この作品はベトナムの若い世代からの心のこもったプレゼントだと思って欲しいです。この作品に興味を持ってくださり、ありがとうございます。『モン族の少女 パオの物語』は初監督作品ですが、これからもよい志を持って映画作りを続けて行き、皆様のご期待に応えられるような作品を作って行きたいと思います。

(2007年4月 東京・イメージフォーラムにて)