■レン・ライ バイオグラフィ
●レン・ライは1901年ニュージーランドのタライストチャ−チに生まれ、1980年5月15日ニューヨークで死亡した、実験アニメーションの偉大なバイオニアのー人である。ドイツからアメリカに渡ったオスカー・フィッシンガーと並んで抽象アニメーションの始祖とされている。

●ポリネシア諸島に滞在し土着芸術の影響を受けた後、1926年ロンドンに渡り、前衛芸術家たちと交流。30年代の終りまでシュルレアリスム画家たちのグループ展に絵を出品していた。

●まもなくアニメーションの制作も始める。有名なドキュメンタリスト、ジョン・グリアスンや前衛映画作家アルベルト・カヴァルカンティらと共に1930年代を通じて英国郵政省(G.P.O.)映画部の仕事に携わり、アニメーション・ドキュメンタリー『テュサラヴァ』(28年)や人形アニメーション『ロボットの誕生』(36年)など、さまざまな広告映画を作る(ちなみにフィッシンガーも30年代にドイツで広告映画を制作していた)。『テュサラヴァ』はライの処女作で、西欧の前衛芸術とポリネシアの原住民の図像が混ざりあったまったく独自な表現で、当時「クローズアップ」誌でオスウェル・ブレイクストンは「素晴らしいアイデアをもった素晴らしいアーティスト」と絶賛し、「カンディンスキの抽象絵画を想わせる」と評した。


自作の絵の前のレン・ライ

●1934年に、カメラを使わずフィルムに直接絵を描く(あるいはスクラッチする)テクニックを完成、『カラー・ボックス』(35年)に初めてその技法を用いた。このテクニックはノーマン・マクラレンやコリン・ロウら後進世代に大きな影響を与えた。また、代表作の一つ『虹のダンス』(36年)では、人体のソラリゼーションや多重映象を抽象的な絵と重ね合せた。『トレード・タトー』(37年)では不要なドキュメンタリー・フィルムにステンシルでカラーの抽象的な模様を刷り込んだ。レン・ライの仕事は今日、色彩映画史の重要なーコマと見なされうる。しかし、たしかに30年代イギリスの劇場やシネクラブで有名ではあったが、彼自身はその先駆性と重要性にふきわしい国際的な評価や成功を手にしたとはけっして言えない。


Universe 1976

●第二次世界大戦中に記録映画を監督した後、1944年にアメリカに居を移す(47年に市民権獲得)。しばらく短編やニュース映画(有名な『マーチ・オブ・タイム』)、教育映画を制作し、イアン・ヒューゴの実験映画『アトランティスの鐘』(52年)にも協力するが、50年代にはやがて映画から絵画や彫刻(とくにキネティック・アート)へと移っていく。それ以来、彼は妻アン・ツァイスの資金とプロデュースでたまにアニメーションを作る以外映画制作から遠ざかるが、57年の『リズム』(1分の広告映画)が年間最優秀コマーシャル映画に選ばれるなど、実力を見せた。晩年に「動く彫刻(キネティック・スカルプチヤー)」として再びスクラッチ・フィルムの制作に関心を寄せていた。

●レン・ライのフィルムは一時散逸していたが、ニュージーランドのレン・ライ財団が彼のフィルムおよぴ絵画・彫刻を収集し、著作集「動きの形態(Figures of Motion)」の発行や回顧展の巡回上映を精力的に行なっている。

西嶋憲生(映画研究)

レン・ライHOME | 上映作品1 | 上映作品2 | バイオグラフィ | Len Lye Foundation


2002-3 Image Forum & Daguerreo Press, Inc. All rights reserved.