ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーやリトル・リチャードの歌と共にロックンロールが産声を上げた前世紀半ば。音楽だけでなく、政治・経済においてもアメリカ社会は大きく変貌しようとしていた。 テレビの普及、米ソの冷戦の深刻化、それに伴うレッドパージ、核開発、朝鮮戦争、人種・人権問題、ビートニクなどなど。ボブ・ディランは、そんな時代をミネソタの北、森と湖でカナダと国境を隔てられた田舎町ですごす。「冬は何もかもが静かで動かなかった。それが八ヶ月続く……何もしないで、ただ窓の外を見つめていると、幻覚を見そうになる」と、その町をディランは回想する。ロックンロール好きで、ハイスクールの卒業写真には「リトル・リチャードの仲間になること」とも記したディランは、その「動かぬ」町の中で、 60 年代の爆発を静かに準備していた……。

50年代末から60年代、ミネソタからニューヨーク、グリニッチヴィレッジへ。社会の激動と共にディランの人生も激変していく。ポップ・ミュージック・シーンには顔を出すこともなく、しかしアメリカの激動の背景を確実に捉え続けるフォーク・シンガーたちとの出会い??ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ジャック・エリオット、オデッタ、デイヴ・ヴァン・ロンクなどなど、ディランは彼らの人生や歌から、計り知れない多くのものを学ぶ。路上での弾き語りやカフェでの演奏、そこに集まる人々との深い交友の中でディランは独自のスタイルを作り上げていく。そしてジョーン・バエズとの出会い、コロムビアレコードとの契約。ロックンロールの炎が鎮火し、見捨てられていたフォークにアメリカ社会が再び目を向けたとき、その中心にはバエズとディランがいた。

タイトルの「ノー・ディレクション・ホーム」とは、アコースティック・ギターから再びエレキ・ギターに持ち替えたディランの、その決定的な変貌の象徴でもある歌、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞の一節。「どんな気がする/ひとりぼっちで/かえりみちのないことは/ぜんぜん知られぬ/ころがる石のようなことは」(訳:片桐ユズル)と歌われるその歌で、この映画は始まり、終わる。その中で、ロックンロールからフォーク、そしてロックへと、時代の変化と共に「かえりみちのない」道を歩み続けるディランの若き日々が切り取られ、語られることになる。
もちろんそれは、アメリカの若き日々、とも言い換えられる。キューバ危機、ベトナム戦争、ケネディ暗殺、平和行進、「私には夢がある」と語ったキング牧師の演説……。人々の夢と野心と欲望と絶望と悲しみとをエネルギーにして変貌するアメリカ社会が、この映画のもうひとりの主人公でもある。あるいは、「アメリカ社会」というもうひとりの主人公こそが「ボブ・ディラン」という名前を持つのだと、言い換えられるかもしれない。出会った数々のフォーク・シンガーたち、ブルースマンたちの誰もがそうしたように、彼らの歌を変奏し、自分のものとして、自らの歌の奥行きを広げていったディランこそ、アメリカという国の広がりそのものだと。もちろんそこには、アメリカ自身に対する怒りもまた、激しく渦巻いていた。

目を見張るのは、数々のレア音源、資料映像とインタビューに登場する豪華な顔ぶれ。友人が録音したハイスクール時代の歌や、路上で演奏する若きディランの初々しい映像をはじめ、63年のニューポート・フォークフェスティヴァルでのピート・シーガーやオデッタとの共演による「風に吹かれて」、それから、「ユダ!」と叫ばれて逆に「おまえは嘘つきだ」と応酬する伝説の英国ツアーの「ライク・ア・ローリング・ストーン」。そしてジョーン・バエズやスージー・ロトロ、メイヴィス・ステイプルズなどのディランを取り巻く女性たちや、ピート・シーガー、デイヴ・ヴァン・ロンク、アル・クーパーといったディランの音楽に欠かせない人々へのインタビュー。あるいは、次作を朗読する、アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックなどの映像。記者たちの質問に反論するディランの神経質な表情……。そんな何百時間にも及ぶ貴重な資料映像の一部と10時間を超すディランへのインタビューから、この映画は構成される。それはボブ・ディランの肖像であるとともにアメリカ合衆国の肖像でもあるだろう。

監督はマーティン・スコセッシ。『タクシードライバー』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』、『アビエイター』といった話題作の他、伝説のロック・イヴェント、ウッドストックを捉えた『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』やザ・バンドの解散コンサートの『ラスト・ワルツ』、そしてブルース生誕100年を記念して作られた『ザ・ブルース ムーヴィー・プロジェクト』のシリーズを製作・監督など、アメリカの音楽への愛と造詣は深い。それだけでなく、ディランと同世代であるスコセッシにとってこの映画ための素材整理と構成は、自らの生きてきた道のりの再構成でもあったはずだ。もちろんスコセッシもまた、「かえりみちのない」場所に立つ。この映画の最後、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏が始まるとき、メンバーに向かって、ディランが「Play it fucking loud(でっかく行こう!)」と叫ぶ。この言葉はボブ・ディランの決意表明である。スコセッシがこのシーンを映画のクライマックスに使ったのもまた、彼の決意表明だといえるだろう。あれから40年が過ぎようとする今、更に次の一歩を踏み出すための「大いなる回帰」として、この映画は「かえりみちのない」道の未来への道標となるはずだ。