1970年
最初のジャンボジェット機747ハイジャックされる。


1968年─1972年
キューバへのハイジャックの道。

ブラックパンサー奔走、FBIは水着を着用。1972年は水着トランクスがFBIの制服になってしまった。1月10日、3人の黒人男性、ヘンリー・ジャクソンと2人の腹違いの兄弟、ルイス・ムーアとメルビン・ケールが、ウィリアム・ハース機長に、サザン・エアウェイズ49便をアラバマ州バーミンガムから出発させるよう強要。他の男性乗客が武器を隠しているのではと過敏になるあまり、全員を下着姿にさせた。女性はバッグを通路に投げ出すように指示した。その間夕食も支給された。このハイジャックは2日にわたる大変厳しいものとなった。アメリカ、カナダ、キューバ、大西洋を横断し9回の強制着陸、そのうちの2回はハバナだった。

1970年3月31日
ハイジャック初のテレビ中継。
東京の町角は人影もまばら:何百万人もがテレビに釘付け

サムライ・ハイジャック! 日本赤軍、定期飛行便を日本で初めてハイジャックし国際デビュー。日本刀で武装した赤軍派9人のメンバーが日航航空機を乗っ取り、キューバ行きを目的として北朝鮮へ向かう(よど号ハイジャック事件)。彼らはソウルで足止めをくってしまう。韓国の金甫国際空港が北朝鮮の航空施設を偽装し、ハイジャッカーたちを惑わせた。韓国の国旗は共産主義の旗へと取り換えられ、盗んだ北朝鮮の制服を着た空挺部隊がトラック2台で登場。しかしその試みは失敗する。アメリカのジャズのラジオ放送が察知され、策略は水に流れた。このサムライ事件は生中継され、何百万人のテレビ視聴者に向けて84時間放送された。日本語の辞書にも「ハイジャック」という新たな語が加わった。

1970年6月15日
良心的拒否?:ソ連下でユダヤ人が航空機乗っ取り、イスラエル行きを要求。

サンクト・ペテルスブルグ当局は要求を却下、犯人達を抹殺した。エルサレムの「嘆きの壁」では、大規模な抗議行動がおこった。

1970年9月6日
PFLP、パレスチナという言葉を一般家庭に普及させる。


パレスチナ人民解放戦線(PFLP)は、キューバのハイジャック戦略をアップグレードし、世界的な政治現象へと押し上げようとした。ハイジャックを世界中の視聴者とコミュニケーションするための武器としたのだ。テレビが持つ、世論を惹きつける潜在能力は、1970年春のよど号事件によって偶然だが証明された。PFLP内ではその衝撃の余波が残っていた。戦略:プライムタイムに照準を会わせろ。手法:人質の乗客をテレビに良く写るように抱え上げろ。世界が見つめるなかで政治権力と交渉しろ。民間航空機の歴史のクライマックス場面の部隊は整った。

ヨーロッパで日曜日4つのハイジャック:
600人もの乗客が上空から連れ去られる。目的地:「革命滑走路」。2機は砂漠へ向い、3機目はカイロの滑走路で爆破、4機目は奪取失敗し、ライラ・ハリドが逮捕される。5機目が乗っ取られ、ハリドの釈放が要求される。これ以来、セキュリティという言葉が世界中の飛行場での常套句となった。英タイムズ誌は1970年を「ハイジャックの年」と位置づけた。

1969年─1970年
ライラ・ハリドのハイジャック日記

1969年8月29日、スタイリッシュなライラ・ハリドが、白いベルボトムと、それに良くマッチした帽子をかぶって、ローマ発テルアビブ行きのTWAボーイング707機に搭乗した。離陸したとき、彼女のアクセサリーがあらわれる。ピストルと手榴弾だ。コクピットに向いながら、彼女の同行者サリム・イッサウィが、中東で初めてハイジャックされたアメリカ航空機である当機は今、PFLPの指揮下に入った、と宣言した。カーター機長は、ピストルの撃鉄を見下ろし、それに従うしかなかった。
アラブ世界をセレブとして廻ったあと、ハリドは顔面整形手術を受け、歴史との2度目のデートに備えた。1969年のTWA機ハイジャック以来、ハリドの写真は世界中の空港で掲げられたが、ニューヨーク行きエルアル航空に搭乗するベテラン・ハイジャッカーに気づく人は誰もいなかった。今回彼女に同伴したのは、パトリック・アルグエロで、彼女はふたつの手榴弾入りの「ワンダー・ブラ」を着ていた。彼女たちは航空機の進路を変えさせて、ヨルダンの砂漠にある使われていない滑走路で、同志たちと合流しようとした。悪名高い「ハイジャックの日曜日」でPFLPは、4機のハイジャックのシナリオを描いたが、エルアル航空のハイジャックは失敗に終わり、ライラ・ハリドは拘束された。3日後に、PFLPは5機目の航空機を乗っ取り、収容されているハリドの解放について交渉することとなった。

1971年─1972年
パラシュート背負ったハイジャッカーたち、現金を手に去っていく。

北アメリカ:金曜はハイジャックの日だ。毎週のようにハイジャックの通報があった。

1972年5月8日
テルアビブ・ロッド空港:"黒い九月"の仮面劇

ハイジャックされた航空機に対する初めての攻撃が行われる。イスラエルの特殊部隊は機械工を偽装。      パレスチナ人少女たち、ガードルに爆弾、ブラに起爆剤を仕込んでハイジャック。
カツラで変装し、偽造パスポートを使って、4人のパレスチナ人がブリュッセル空港でサベナ航空ジェット機に搭乗した。その4人のうち2人は少女であった。リマ・タヌース・アイサ21歳とテレーザ・ハラーセ19歳である。少女たちは誘爆性のある素材でできた特殊なガードルを履き、化粧道具の中に手榴弾をそれぞれ隠して起爆剤をブラジャーの中に忍ばせていた。サラエヴォに近づくと、彼女たちはトイレでガードルを外し、リマは爆発物を扱って、テレーザはインターコムを使い乗客にパレスチナのゲリラ組織「黒い九月」が当機をハイジャックしたとアナウンスした。彼らはテルアビブ空港に着陸し、イスラエルの刑務所に収容されている317人のパレスチナ人奇襲部隊員の解放を要求した。要求を聞き入れなければ、飛行機を乗客ごと吹き飛ばすと彼らは主張した。イスラエル兵が機械工に偽装し、飛行機に突入、2人の男性ハイジャッカーと一人の乗客に発砲、 民間航空機に対する攻撃の最初の成功例となった。

1972年─77年
テロリスト(対テロリスト部隊)交換ショップ:ハイジャック用品を交換しよう。

ドイツ赤軍と日本赤軍、PFLPがカラシニコフやパスポートなどハイジャック備品の交換をした。

1975年12月21日
ウィーン、OPECで銃撃戦

国際的なプレイボーイの革命戦士、カルロス、またの名を「ジャッカル」が、ウィーンのOPEC会場におしかけた。11人の石油富豪と国家首脳が拉致される。歴史上で最も金持ちで権力のある人質である。カルロスは航空機を要求し、やがて彼と人質は飛び立った。

1976年─1977年
対テロリスト部隊がエンテベとモガディシオに集まり、「テロリストは、発見次第発砲せよ」という共通見解を一致させる。



(C) ヨハン・グリモンプレ 2003
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