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1931年 記録に残る最初のハイジャック: ペルー人革命家らがパンナム航空機を奪取し、パンフレットをリマ上空にばら撒いた。 1947年─1958年 プロペラ機時代:「鉄のカーテン」越えは、西から東、東から西いずれの場合も非難を集めた。 1947年7月 戦後初のハイジャック:ルーマニア人たちが西側へ渡る。 1948年9月 初の東西冷戦「鉄のカーテン」越えハイジャック。ギリシャ人たちが東側へ渡った。それに対し西側諸国では賞賛の声はなかった。 1958年2月17日 ジェット機時代突入。それと同時に新語誕生: 「ハイジャック」!! 共産シンパが北朝鮮へ38度線越えをする。これを受けて、英タイムズ誌が「ハイジャック」という言葉をつくりだした。 1958年 新ゲリラ戦略:カストロ主義者たち、権力目指してハイジャック カストロ主義者たちは、ハイジャックをゲリラ戦略として採用。以降数年間にわたり、100機近くの飛行機がキューバへ行き先を変更し、キューバはハイジャッカーたちの港となった。 1959年 ブーメラン: 難民たちが飛行機を乗っ取ってキューバを脱出。アメリカ合衆国が、初めてハイジャック犯を政治亡命者として受け入れた。 |
1961年─1972年 ブーメラン2: 俺たちゃ行くのさ…キューバへ! ホームシックに駆られた大勢のキューバ人たちが、数珠つなぎでハバナに向けてハイジャックした。 1968年 パレスチナ人によるハイジャック戦争勃発。 1967年の6日間戦争で、70万人のパレスチナ人が家をなくした。1968年7月23日、パレスチナ人民解放戦線(PFLP)は領空権を主張し、イスラエル航空機を奪取しアルジェへ向かった。 1969年 ハイジャック・イン:キューバ人たち、食事とワインでアメリカ人を歓待 1969年には、ハバナ空港内のレストランやギフト・ショップが、ハイジャックによって予期せずも連れてこられた大量の乗客たちのために事業を拡大。空港使用料が増大し、不意なカリブ旅行を受け入れるため滑走路が拡大された。そこで、あるパターンが生まれた。ハイジャッカーたちはハバナのシボネイ地区にある、カーサ・デ・トランジトス(ハイジャッカーの家)で寝泊まりをする。パイロットや乗組員は簡単な休憩を取り、シガーをふかしたあと、空になった飛行機でアメリカへ帰っていく。キューバ人たちはアメリカ人観光客をワインと食事で歓待し、社会主義国キューバの観光ツアーへ連れ出す。旅行についてきた不意なおまけも終了し、大体において楽しんだ観光客たちは、ラム酒や葉巻、革命文学の本やソンブレロ、チェ・ゲバラの写真などを抱えて、アメリカへ帰っていくのだった。 1969年12月28日 イスラエル特殊部隊がベイルート空港に集結し、PFLPによるイスラエル航空ボーイング707に対する攻撃の報復として、13機のアラブ系ジェット機を爆破した。 1969年8月29日 1969年11月1日 ヴェトナム帰還兵ラファエル・ミニチェッロが、TWA85便に対してロサンゼルスから出発し、2つの大陸と海を越えるように要求。2日後、6,869マイルの行程を経てローマにたどり着いたことで、これが世界最長のハイジャックとなった。彼は航空券代に15ドル50セントしか払っていなかった。ラファエルによるハイジャックは、イタリアでベスビオス火山噴火以来のエキサイティングな出来事だと讚えられた。アメリカ帝国主義者たちに戦争マシーン化された被害者として熱狂的に受け入れられ、彼は突如セレブとなった。彼には求婚者が殺到し、映画女優の卵やモデルたちが涙ぐんで想いを訴え、彼にはマカロニウェスタンの主役の誘いまであった。 |
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(C) ヨハン・グリモンプレ 2003 このテキストはヨハン・グリモンプレによる『ダイアル ヒ・ス・ト・リ・ー』DVD版のアートブックに収録されているテキストです。 無断の転用、引用はお断りいたします。 |
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