イントロダクション
イメージフォーラム・シネマテークのはじまりは1971年にある。それから54年。
共立女子大学佐藤洋ゼミナールは、シネマテークで上映されたフィルム・ビデオ、関係資料を調査・整理するプロジェクトを、イメージフォーラムの協力のもとに、2024年度からスタートした。今回はその2回目の報告上映会である。
整理した作品の中から、学生が選定した作品をデジタル化して上映する。
石田純章作品、大久保京子作品、粕三平作品、木下和子作品、保田夏代作品、松岡康二作品、かわなかのぶひろ作品、鈴木志郎康作品、ドナルド・リチー作品を上映。上映終了後には、1983年からシネマテークの上映を担ってきた池田裕之さんにお話をうかがう。
今年度も、整理し選定したフィルムは、年度も様式もバラバラの作品である。
作家の方々やシネマテークをつくってきた方々へのインタビューをかさねながら、過去の作品をみずみずしくとらえられる関係と仕組みを思いえがいてきた。2年目になって、なれてきたこともあれば、なかなかうまくいかないこともある。しかし、これから10年ほどの時間で、シネマテークをつくりあげてきてくださった人たち、作品たち、彼らがつどった部屋を大切にする調査と研究をつみあげていく道すじは見えてきた。
学生たちがイメージしてくれた第2回上映会のキャッチ・フレーズは「FADEN」。ドイツ語で糸。糸がつむぎ、むすび、つくりだす連想をふくみもつ言葉を選んだとのこと。作品と資料をとおしてイメージフォーラムのスタッフの方々、作家の方々と出逢い、言葉をかわし、笑いあう経験が、学生たちにはかがやいていたのではないかと思う。詩のような人と作品がつどってきた部屋で開催される上映会に、ぜひいらっしゃってください。
(共立女子大学佐藤洋ゼミナール)
*本プロジェクトは、共立女子大学の「共立リーダーシップ」教育の一環として実施しています。
*13時の回上映終了後トークあり ゲスト:池田裕之(元イメージフォーラム・シネマテーク ディレクター)
プログラムA(4作品/48分)
Life, Life, Life/ドナルド・リチー/8ミリ/6分/1953
Tokio House/石田純章/16ミリ/7分/1990
北帰行/かわなかのぶひろ/8ミリ/20分/1973-1974
胸をめぐった/鈴木志郎康/8ミリ/15分/1973
プログラムB(1作品/63分)
ヒメムカシヨモギ/木下和子/8ミリ/63分/1986
プログラムC(4作品/48分)
WALT/松岡康二/16ミリ/3分/1975
バンビの足はすぐ折れる/大久保京子/8ミリ/8分/2002
怨霊伝/粕三平/16ミリ/16分/1967
夏休み映像日記/保田夏代/8ミリ/21分/1981
作家紹介・作品解説
石田純章
映像作家。1959年横浜生まれ。高校時代に写真部で現像を、バンドで音楽をやっていた経験が映像製作の基盤となる。東京造形大学でアニメーション研究会に参加、 ノーマン・マクラレンなどの作品を知り、シネカリグラフを用いた作品『Rain』を製作する。学園祭の上映会で相原信洋から発破をかけられ、アニメーション80の創設に参加。かわなかのぶひろゼミで個人映画、実験映画の世界にふれる。石田の作家性の特徴は、技法を決めてから作品をつくるという製作スタイルにある。それゆえに、「IMAGE(心象)」シリーズから「いちにち」シリーズにいたるまで表現様式の幅がひろい。作品に頻出する繰り返しの表現などにも目がとまるが、表現の幅のひろさこそが石田の作家性である。
Tokio House/石田純章/16ミリ/7分/1990
バルブ撮影とスチル写真を中心に様々な撮影技法を駆使してつくり上げた、石田純章の集大成となる作品。舞台は取り壊しが決まった、新宿にある祖母の家。建築ラッシュの東京の中で日に日に失われていく、木のぬくもりのある家を、イメージ的な映像で表現。国内の地価高騰や東欧革命、ベルリンの壁崩壊、80年代のめまぐるしく変化する社会情勢を、通りすぎる時代を見守ってきた「時の家」に投影させ、家の記憶を表現する。
ベルリンの壁が壊れる音をコラージュするなど工夫をこらした製作は困難だった。『Just Like a Cat』製作をはさみ、映像編集の仕事を辞めて集中して製作した作品。
アニメーション80が1つのテーマとした、働き暮らすことと表現することの関係を体現した作品にもなった。1年8ヶ月の時間をかけて完成し、イメージフォーラム・フェスティバルほか、韓国やオランダの映画祭など多くの場所で上映されている。1992年にはクレルモン=フェラン短編映画祭で受賞。
【フィルモグラフィー抄】
『RAIN』(1979)『SPIN IT ON』(1979)『IMAGE(心象)1』(1980)『IMAGE(心象)2』(1980)『A CIRCLE SURROUNDS IT』(1980)『A Face In Mind』(1980)『John Lennon 1980』(1981)『IMAGE(心象)3』(1981)『image (心象)4』(1981)『とおりあめ』(1981)『IMAGE(心象)5』(1982)『青い鳥をつかまえろ!!』(1982)『As Times Goes By ときのすぎゆくままに・・・』(1982)『いちにち ー窓ガラス篇ー』(1982)『いちにち ー休みの日には・・・篇ー』(1983)『いちにち ー砂浜篇ー』(1983)『DAYS』(1983) 『YOKAN』(1984)『光の闇』(1985)『just like a CAT』(1989)『TOKIOHOUSE』(1990)『THE VOICE OF THE AIR』(1991)『よろこびのうた (Symphony No.9)』(1991年)
(担当:飯塚美葵、大森千萌、畑中七海、谷山ことり、八尋結菜)
木下和子
1955年長野県生まれ。國學院大学卒業。1984年、『リトアニアへの旅の追憶』鑑賞をきっかけにイメージフォーラム映像研究所入学。卒業製作作品『オオアレチノギク』(1985)は、「自分の気持ちが引かれる事物の映像の集積が作品となってくる映画なのだ。その集積が事物と作者との関係を語っている。そして事物に対する執拗さが作者の存在を強く示している。木下和子の作品として見られるのは、その関係性が作品のなかで変わって行っているのがみられるからなのだ」(鈴木志郎康評)。木下和子は日記映画をつくる。通勤にいつも8ミリ・カメラを持って歩き、心ひかれる事物を毎日のように撮りつづける。花、夕ぐれ、鉄塔、電線、列車、光。日々の暮らしのなかでふれあう事物を可憐にとらえ、その微妙な変化をうつすことで、世界とかかわってゆれうごいていく内面が表現されていく。1980年代から90年代に表現した女性8mm映画作家たちの中でも、独自の作風を確立している。
ヒメムカシヨモギ/木下和子/8ミリ/63分/1986
『ヒメムカシヨモギ』は、映像研究所卒業から1年後に製作された日記映画。風に揺れる花・茎・葉、通勤列車の窓、人のかすかな表情の変化、街の灯、遠くの海、花々、鉄塔、夕ぐれ、光によって変化する街の気配。いつも持ち歩くカメラに収められた日常の断片に、詩のようなナレーションで独白がかさねられていく。映画を撮る瞬間の興奮と緊張。「カメラを手にした時から、欲望にしたがって撮ってきたのだ。自分が気がひかれるもの、自分の好きだと思うものを、自分のものにしたいという欲望である。だから、この半年でカメラによって私は、自分の欲望をつかみ出されてしまったような気がする」(ナレーションより)。撮影する欲望を自覚して見つめることで、映画とは・表現とは何だろうか、風景とは感動とは何だろうかという問いかけが、しずかにささやかれる。日没を見つめる心をたたえながら、その心は何だろうと同時に問いかける。ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』も連想させる美しい作品である。
【フィルモグラフィー抄】
『青梅前線』(1984) 『オオアレチノギク』『ゆきぐれ』(1985)『平行四辺形』『ヒメムカシヨモギ』(1986)『三月、球体、魚』(1988)
(担当:青山滋美、新井優衣、笹沼遥夏、佐藤小春、田邉こころ)
松岡康二
1952年生まれ。映像作家/CMディレクター。武蔵野美術大学卒業。1972年、スタンディシュ・ローダー『廊下』ポール・シャリッツ『T.O.U.C.H.I.N.G』などの作品を映画祭で目にして、個人映画の製作をスタート。合成や多重露光といった技術を駆使した技巧的な作品をつくる。大学の同級生と恐怖写真社という集まりを結成するなど、活発に活動を展開。次第に、技巧をかなぐり捨てた日記的な映像作品も製作。大学卒業後はCMディレクターとして活躍。『私作る人、僕食べる人』(1975)の製作にたずさわったほかカルピス「Hot カルピス'83 冬」など多数製作。2017年逝去。第1回100フィートフィルム・フェスティバルの94名の作家の似顔絵を描いたのは松岡康二である。
WALT/松岡康二/16ミリ/3分/1975
「100フィートフィルム・フェスティバル」に出品された作品。シュルレアリスム絵画からはじまる。つづいて、フォーマルな洋装に身をつつんだ男性と花がうつされる。映像は写真の再撮影によって構成され、パラパラ漫画のような印象を受ける。男性によって摘まれた花々は最後には枯れてしまうのだが、自己の快楽が他者の終わりを引きおこす様子を表現しているのではないか。ポール・シャリッツらの影響からスタートした松岡は、エスカレーターなど日々見すごしがちな身近な対象をカメラで技巧的にとらえる構造的な映画づくりからスタートした。日常の不可思議な姿が、シュルレアリスム的な発想へと松岡を歩ませ、のちの『黄泉の国への汽車の旅』など日記映画と構造映画をミックスしたような作品へと作風を拡大する。その転換点を象徴するのが本作であろう。
【フィルモグラフィー抄】
『Blank』『昇天』『The Night Runnner』『窓辺の夜』『血縁関係』『出現』『からっぽの薔薇』『FEED ME!』『秘密の歌』『プラット・ホーム』『曙光〜出現〜存在〜啓示』『呼吸』『赤坊の右手』(1973)『めくらの鳥』『EASY STREET』(1974)『WALT』『黄泉の国へ汽車の旅』(1975)『マドラス便り』(1977)『N²』(1978)
【CM作品抄】
『私作る人、僕食べる人』(1975)クボタ/企業「海のうた」(1977) アサヒビール/生とっくり「ピンクタヌキ」 (1984) サッポロビール/サッポロびん生「大リーグ」(1986) 明星食品/チャルメラ「日出子 ファン」(1991) ブリヂストン/93安全キャンペーン「春」(1993)松下電器産業/Panasonicブレンビー58「蘇える映像」(1994)公共広告機構/公共広告「WATER-MAN」(1997)HONDA「フィット」(2001)花王ニベアボディ「リニューアルナイトクリーム」(2004)AGF「ブレンディ ボトルコーヒー」(2010)
(担当:岩田桜空、大西明日歌、中山空海、山口花凜)
大久保京子
1971年横浜生まれ。人形作家。1997年ごろから和紙を使用した人形をつくりはじめ、1998年には原宿のデザインフェスタギャラリーにて自身初の個展を行なう。ヤン・シュヴァンクマイエルの影響から「自分の人形を動かしてみたい」と思うようになり、2001年にイメージフォーラム映像研究所に入学。卒業製作作品『バンビの足はすぐ折れる』が最優秀賞を受賞。作者の繊細な内面をうつし出す人形は国内外から評価され、現在は間京子の名前で、2025年にいたるまで数多くの展示を行なっている。
バンビの足はすぐ折れる/大久保京子/8ミリ/8分/2002
『バンビの足はすぐ折れる』は、実写映像と人形のコマ撮りアニメーションを融合させた8分間の作品。不気味なものにかわいさを、動物の造形に美をおぼえる作家性を軸に、バンビ、ネガティブを象徴するネガダマ、花を食べるゾウなどの人形、管や水などをコラージュして製作した。女性が表現することの難しさへの違和感。人の心が折れるように、バンビの足が折れる。立たなければ命を落としかねないバンビと自分とを重ね、抜け出そうとするけれど、それでも折れてしまう時がある。人生に漂うほのかな絶望とそれを打ち消すような幸福、どちらをも無視するまいとしながら、「可愛らしさ」を繊細に表現している。
【フィルモグラフィー】
『バンビの足はすぐ折れる』(2002)
【人形発表歴抄】
「原宿デザインフェスタギャラリーで個展」(1998 東京)『デザインフェスタ』(2003 東京・ビックサイト)『Spiral Independent Creators Festival』(2004 東京・原宿スパイラルホール)『SOFA』(2006 ニューヨーク/シカゴ)個展『ポケット』(2007 東京・銀座 Gallery S.c.o.t.t)個展『Scattered Pieces, Paper Sculptures』(2007 ボストン・Mobilia Gallery)個展『ミツバチの噂話』(2008 東京・小出由紀子事務所)個展『New Work』(2011ボストン・Mobilia Gallery )企画展『Animal Nature』(2012 ウィスコンシン・Racine Art Museum)個展『From A Quiet Place』(2014 フロリダ・森上美術館)企画展『Wonders of The Garden』(2025 ボストン・Mobilia Gallery)
(担当:茂野唯花、金子遥、角田瞳、東條円香、飛塚菜月、宮崎紗弥夏)
保田夏代
1957年大阪府生まれ。アニメーター。1977年日本アニメーション入社、『未来少年コナン』『赤毛のアン』『トム・ソーヤの冒険』などで作画を担当した。1981年からは個人映画作品として『日常』『UPSIDE DOWN PART 2』『高カロリー低タンパク』などを発表する。その後スタジオジブリに参加し、『火垂るの墓』『魔女の宅急便』『おもひでぽろぽろ』の製作にたずさわる。筒井武文監督作品『ゆめこの大冒険』のタイトル・アニメーションを担当したのは、筒井が保田の「作品のファンだったから」である。
夏休み映像日記/保田夏代/8ミリ/21分/1981
『夏休み映像日記』は、1981年7月24日から9月10日までを、コマ撮りの日記形式で綴った作品。イメージフォーラム映像研究所5期の実習作品として製作された。序盤は日本アニメーションで撮影。MVの影響もあって製作された本作では、明るい音楽が流れており、映像のリズムと響きあって、陽気さを一段と加速させる。後半では故郷・関西へ帰郷する様がうつし出される。1981年当時、高畑勲、宮崎駿らは日本アニメーションを離れ、自分の仕事をつくる道を探求しつづけていた。彼らの姿を目にした保田夏代は、映像の表現と演出の勉強を心に、個人映画製作の道をあゆみだす。かろやかに懸命に、アニメーション表現をこころざす美しさが凝縮した作品である。
【フィルモグラフィー抄】
『日常』『LOCATION』『夏休み映像日記』(1981)『BROKEN HEART』『UPSIDE DOWN PART 2』(1982)『CINÉMA』(1983)『高カロリー低タンパク』(1984)『ゆめこの大冒険 タイトル・アニメーション』(1987)
(担当:吉祥玲奈、堀井柚香、林佑里子、五郎丸結以)
粕三平
1929年福岡県生まれ。本名・熊谷光之。九州大学造船科中退。1955年に制作者懇談会を発足。美術・演劇・映画のジャンルレスな芸術運動を志す。1957年創刊の第一次『映画批評』誌では中心的役割を務め、制作・批評・観客の垣根を超えた映画運動を目指した。1970年代以降は浮世絵に描かれた幽霊や妖怪に関する文章を執筆し、多数の著作を残す。さらに生涯を通してチェコ映画の輸入・上映・執筆活動を行い、日本におけるチェコ映画の普及に貢献した。1998年逝去。
怨霊伝/粕三平/16ミリ/16分/1967
江戸後期に描かれた血みどろ絵を分解し、モンタージュによって再構築する。 粕三平、池田龍雄、前田常作、神原寛、田畑慶吉、長谷川龍生、林利根男が中心となって製作。日本人の中にある日常と地続きの恐怖を表現する手法は、その後の粕の活動や、根底にある粕の哲学と呼応する。「怨霊の本質は「おのれが心を責めて、物の実を知る」かぎり、余剰がひりだす不安、生と死の混淆、即ち、ありあまる日常性である。(中略)ニセモノの修羅、ここにこそ、ヨーロッパのフィクションと全くその質を異にするわれわれ日本人のすぐれた空言(ソラゴト)と恐怖の関係がある」(粕三平)。
【フィルモグラフィー抄】
『『伊賀の影丸』(1964)『怨霊伝』(1967)『罠』(1967/山際永三、村木良彦、田原総一郎との共作)『わたしのアフリカ』(1970)『名前のない女』(1970)『じぞうあめ』(1975)『亡人絵巻』(1980)
(担当:木村朱里)
ドナルド・リチー
1924年アメリカ・オハイオ州に生まれる。通りにRichie streetと名がつく名家に育つ。1947 年に占領軍の一員として日本をおとずれ『Stars and Stripe』誌で映画評を担当。1949年にニューヨークへ。8ミリフィルムも製作。1954年にふたたび日本へ。文芸批評家、映画研究者、文筆家、音楽家、キュレーターなどなど多岐にわたって活躍。『Japanese Film』(1959)など多くの著作で日本映画の歴史と表現の分析をおこなった功績も巨大である。1950年代から日本で実験映画を紹介・製作しつづけ、フィルム・アンデパンダンの組織、実験映画上映のキュレーションなど、ドナルド・リチーは「日本の実験映画を絶えずリードした草分け的存在」(かわなかのぶひろ)でもありつづける。2013年逝去。
Life, Life, Life/ドナルド・リチー/8ミリ/6分/1953
雑誌『Life』の切りぬき記事をコラージュした作品(最後の1ショットだけが記事ではない)。アメリカでシネマ16の活動に参加するなど、実験映画に親しんだリチーが、キッチンでつくった。1954年から、リチーは日本の自宅で大辻清司や羽仁進らに同作を見せ、大辻が『キネカリグラフ』をつくり、羽仁が「シネマ」そして草月での活動をおこなう1つのキッカケをあたえた作品でもある。『Life, Life, Life』が、アメリカの実験映画の息吹を日本へ輸入した歴史を、中島崇があきらかにしてくれた。死とセクシャリティを主題とするリチーの作品群のなかで、雑誌『Life』を被写体とすることで、おおくの人にとどきやすい表現の形をまとった作品。音楽Eva Decker and her Old Timers。
【フィルモグラフィー抄】
『Small Town Sunday』(1941)『The Woods』(1949)『The Object』(1951)『The Doll』 (1952)『Charade』(1952)『Ricecare』(1952)『A Sentimental Education』(1953)『Life, Life, Life』(1953)『Till Death Do Us Part』(1953)『Masks of Japan』(1953)『青山怪談 Aoyama Kaidan』(1957)『し Shi』(1958)『秋絵 Shu-e』(1958)『熱海ブルース Atami Blues』(1962・1967)『戦争ごっこ Wargames』(1962)『ふたり A Couple』(1963)『ライフ Life』(1965)『猫と少年 Boy with Cat』(1966)『死んだ少年 Dead Youth』(1967)『五つの哲学的童話 Five Philosophical Fables』(1967)『シベール Cybele』(1968)『映画監督:黒澤明 Akira Kurosawa : Film Director』(1975)
かわなかのぶひろ
1941年東京生まれ。映画館で多くの時間をすごして育つ。1960年代から8ジェネレーションというグループで劇映画を製作。1966年草月会館ホールで実験映画にふれ、構造映画やマルチプロジェクションの映像作品をつくるようになる。並行して批評・上映の活動を展開。1971年にはアンダーグラウンド・センターのちのイメージフォーラムを富山加津江・中島崇と共に創設する。個人映画のつくり手たちが上映し語り合う場をはげますその姿勢は、1977年に寺山修司と相談してイメージフォーラム映像研究所をつくり、映像製作を教育する道へとひろがることとなり、東京造形大学でもおおくの学生をそだてた。雑誌『イメージフォーラム』創刊、海外への日本の実験映画巡回上映など、個人映画文化がふくらんでいくキッカケを多角的につくった。劇映画をふくめたあらゆる映像を愛しはぐくむエートスが、自身のイメージのリアリティを表現する、『私小説』『往復書簡』などの映像作品の創造にもつながっている。
北帰行/かわなかのぶひろ/8ミリ/20分/1973-1974
「北海道への旅のプロセスを、自分の目の位置に密着して捉えたフィルムで、およそ半分くらいのシーンを汽車からながし撮りしたもの。残りの半分も、自分が興味を持ったものを次々と累積したシーンで埋まっている。ぼくの作品の中では、最も肉眼に近いフィルム」(かわなかのぶひろ)。『新北帰行』『続・新北帰行』とつむがれるシリーズ作品は、同1974年から1977年まで10作品つくられる「Townscape」シリーズと並行している。1960年代初頭から劇映画を8ミリで製作、1960年代半ばからは構造的な映画/ドキュメンタリー的な映画をつくってきたかわなかが、自身の作品を顧みて、構造的な作風と日常の出来事のからイメージをつくりだす作風の二通りのパターンが自身にはある、と自覚をつよめる時期の作品。1973年のお正月に根室で個人的なイベントを試み、帰路、札幌へよった際の撮影と思われる。かわなかが自身の作家性を自覚していく、1972年から73年の出来事の中でつくられたのだ。
【フィルモグラフィー抄】
『水の記憶』(1962)『カラー・スクラッチ』(1963)『リズム』(1964)『追難』『明の世界』(1966)『サマータイム』『SEXTION』(1967)『ZJA』『CHNAGE OVER』『王室の花』『NADJA1000』(1968)『ASSEMBLE』『ビタミン・ショー』(1969)『ブンちゃん』『風景論』(1970)『ZOOM-SHOT』(1971)『CROSS-SHOT』『GAV’71』 (1972)『PLAY BACK』『FEED BACK』(1973)『北帰行』『Kick the world』『Talkie FILM』『写真銃 Photgraphicgun』『新北帰行』『Townscape1 Train』(1974)『透過装置』『市街劇ノック』『続・新北帰行』『幽霊都市』(1975)『Townscape5 記憶の修正』『SWITCH BACK』(1976)『ベースボール』(1977)『絵日記1・2』(1978)『映像書簡』(1979/萩原朔美と共作)『Bふたたび』(1984)『作られつつある映像』(1985)『私小説』(1987)『私小説・完結篇』(1992)『天井桟敷のひとびと』(1993)『映像書簡5』(1994/萩原朔美と共作)『旅の繪』(1998)『いつか来る道』(2001)『映像書簡10』(2005/萩原朔美と共作)『この1年 Part2』(2006-2007)『アーチストメモリー#3 サヨナラ粟津潔』(2009)『アレから5年』(2010)『映像書簡11』(2010/萩原朔美と共作)『痕跡 内藤陳がいた』(2013)『断章 寺山修司を掘り起こせ』(2016)『人である。』『時の繪ふたたび』(2017)『あれから、また、5年』(2018)
鈴木志郎康
1935年東京生まれ。1952年ごろから詩を書きはじめる。早稲田大学卒業。1961~1977年、NHKにカメラマンとして勤務。同人誌『凶区』『眼光戦線』『徒歩新聞』等発行。膨大な量の映画評、とくにドキュメンタリー映画評・個人映画評を書きつづける。1960年代はじめから個人映画を製作、詩作の変容と連動して、シュルレアリスムの過激な作風から、だんだんと日記的な空間としての映像作品をつくりつづけた。1971年から東京造形大学で、1976年からイメージフォーラム映像研究所で、1990年から多摩美術大学で、学生たちを教えた。鈴木志郎康の存在が、日記映画という映像ジャンルが日本で独特の展開をみせるキッカケになった。2022年逝去。
胸をめぐった/鈴木志郎康/8ミリ/15分/1973
スーパー8カメラに6ミリレンズとマノンワインダーをつけてつくり出した魚眼の映画。1969年に『アマタイ語録』をつくった後、映像作品の空白期がつづいた。1972年からはじめた、東京造形大学のゼミでの、個人映画づくりの指導経験に刺激を受け、4年ぶりに発表された作品。「日記映画。そう思っているだけかもしれないが。札幌の雪景色。暖かい部屋の中。奥さんの裸の胸をめぐるカメラ。日常を語るナレーション」(和田幸子)。鈴木は学生に教えることで学んだと語る。「個人的に作る映画は、自分の職業上の不満を解消するものでも、慰めとするものでもなく、自分自身の表現として立派に成立するものだということを自分で学んだ」(鈴木志郎康)。鈴木志郎康の作風が変化していく移行期の作品。
【フィルモグラフィー抄】
「EKO Series」(1963)『ヒロシマでタクタム』(1965 )『凶区のりものづくし』(1965 )『nitrish wife-出産の神秘』(1965)『隅田川』(1966)『家』(1966)『Kenokenoi動物づくし』(1966)『宣言』(1966)『やべみつのり』(1967)『アマタイアマアマ』(1967)『アマタイ語録』(1969)『胸をめぐった』(1973)『日没の印象』(1975)『夏休みに鬼無里に行った』(1975)『極私的魚眼抜け』(1975)『記憶の土手』(1975)『景色を過ぎて』(1976)『見知らぬ部屋』(1977)『草の影を刈る』(1977)『写さない夜』(1978)『玉を持つ』(1979)『Landscape of Wind』(1979)『15 日間』(1980)『肉声のことー詩人正津勉』(1980)『手くずれ』(1982)『眺め斜め』(1983)『あじさいならい』(1985 ) 28『風を追って』(1985)『オブリク振り』(1988)『風の積分』(1989)『隠喩の手』(1990)『時には眼を止めて』(1994 )『角の辺り』(1995)『歩いて』(1996)『内面のお話』(1999)『物語以前』(2000)『極私的にEBIZUKA』(2001) 『山北作業所』(2002)『衰退いろいろ2002』( 2003) 『極私的に臨界2003』(2004) 『極私的に遂に古稀』(2005)『極私的なる多摩王の感傷』(2006)『極私的にコアの花たち』(2008)





