- 鈴木志郎康(1935〜2022)
イントロダクション
現代詩の代表的な詩人であるとともに、「極私的」な姿勢を貫いて多数の映像作品を発表した鈴木志郎康は、以降の個人映画に多大な影響を及ぼしました。映像制作と並行して、イメージフォーラム映像研究所や多摩美術大学などで指導にあたり、数々の映像作家を育てたことも日本の個人映画史の中で特筆すべき事柄です。
イメージフォーラム・シネマテークでは今年9月に亡くなられた鈴木志郎康さんを偲び、代表作である『日没の印象』、『草の影を刈る』、『15日間』と、単独での作品では遺作となった『極私的にコアの花たち』、幸福感に満ちたホーム・ムービー的映像詩として魅力を放つ『玉を持つ』を上映します。
『日没の印象』を見るたびに、自らの映像表現を開拓していくという固い決意に圧倒される方も多いのではないでしょうか。「鈴木志郎康と<個人による映像表現>」というテーマで、親交のあった西嶋憲生さん、石田尚志さんの対談も開催。鈴木志郎康さんの作品と功績について振り返ります。
Aプログラム
草の影を刈る 16ミリ(デジタル版)/200分/1977
Bプログラム
日没の印象(英語字幕付) 16ミリ(デジタル版)/24分/1975
15日間(英語字幕付) 16ミリ(デジタル版)/90分/1980
Cプログラム
玉を持つ 16ミリ/3分/1979
極私的にコアの花たち ビデオ/53分/2008
対談「鈴木志郎康と<個人による映像表現>」
西嶋憲生(映像研究者)×石田尚志(画家・映像作家)※30分を予定
作品解説(制作順)
日没の印象
この『日没の印象』は、わたしの個人的な映画表現の出発点になった作品。1971年から東京造形大学に非常勤講師として行くようになり、学生たちに詩の話をしたり、ゼミで映画を作らせたりしているうちに、既に8ミリで映画の真似事をしていたので、自分なりの映像表現をしたいという気持ちが募ってきた。そして、中古カメラ店のウインドウに「CINEKODAK K」を見つけて、それを使って個人で映画を作ることをはっきりと自覚した。一方で、NHKの映画カメラマンとして働いていたから、マスメディアの何たるかをそれなりに知っていて、それらの作品とは全く違うパラダイムを開くということを考えた。マスメディアが一般性という抽象的な方向に向いているのに対して、あくまでも個人の固有性に目を向けた具体的なイメージの意味を問うという方向に向かった。これが、やがて『景色を過ぎて』『草の影を刈る』『15日間』へと展開して行くことになる。音楽は、アルゼンチンタンゴのアルバムから借りた。(鈴木志郎康)
草の影を刈る
『日没の印象』で手応えを得て、日常的な視点から表現する映像制作を発展させ、常に手元にカメラを置いて撮影することを実践した作品。4部で構成され、オーディオコメンタリー的につけられたナレーションで心境を振り返っていく。撮影していくにつれ撮影の動機を失った作者は生活が膠着していることに気付き、NHKを退職することを決意。撮影する行為が作者の意識と実生活を変化させていく。
玉を持つ
「100フィート・フィルム・フェスティバル」に出品された、3分間の爽やかなホーム・ムービー。明るい日射しの中で女達が大小さまざまなガラス玉を持って遊んでいる。テーブルの上を転がしたり、透かして見たりする楽しいひとときを、作者の詩の朗読とともに、さりげなく捉えた作品。
15日間
この作品は、『写さない夜』を撮って、格好を付けている自分の姿しか写ってないと感じて、もっと自分自身を暴露するという意図で作った。作ろうと思ってみたものの、いざ始めようとすると怖じ気ついて、カメラのアンプの故障と思い込み二日延ばしで始めた。しかし、口の動きと音声が合わないと理由を付けて、カメラの正面に向き合うのを避けて、後ろ向きでの撮影となった。一週間撮って、そのフィルムのラッシュを見て、見たこともない自分の姿に心が動転。更に撮り終わってからも、フィルムを見ることも出来ず、ただ機械的に編集した。出来上がっても、作品として公開して意味があるのかどうか判断できずに、かわなかのぶひろさんと中島崇さんに見て貰い、二人の反応を見てようやく公開する気になった。その後、このフィルムの「自分」と、ビデオで撮影した上半身裸体で、うそ、何言っての馬鹿、違う、とかの否定の言葉ばかり述べる「自分」と、生身の「自分」との三者鼎談というか、話し合いというか、とにかく「フィルム」と「ビデオ」と「生身」とが言葉を交わすパフォーマンスを行い、このフィルムの「自分」を抜けることができた。自分なんてあてにならいよ、という考え方の出発点に立てたというわけ。こういうことは誰かがやっておかなければいけない、それを自分がやったという自負もある。(鈴木志郎康)
極私的にコアの花たち
わたしの家には小さな家がある。プランターや鉢に植えた植物が毎年花を咲かせる。わたしの生活は、その花たちが芽を出し、蕾を膨らませ、咲き、枯れていく、その姿の移り変わりを見ることから始まる。わたしはそこに自然が語る時間の流れを読み取る。その流れに生きている自分自身を浮かべる。水仙、薔薇、月見草、紫陽花、そして朝顔。花を見る気持が自分を考える思いに交錯する。圧倒する植物の生命力を映像で受け止める。(鈴木志郎康)
鈴木志郎康
1935年生まれ。2022年9月8日没。1952年ごろから詩を書き始め、早稲田大学第一文学部仏文専修を卒業。1961〜1977年に、NHKのカメラマンとして勤務する一方、詩作を続け、同人誌「凶区」を創刊。1968年に詩集「罐製同棲又は陥穽への逃走」でH氏賞を受賞。2002年、詩集『胡桃ポインタ』で高見順賞、2008年に「声の生地」で萩原朔太郎賞を受賞。
1960年代半ばから個人映画の制作も始め、一貫して日記的、身辺雑記的な空間として映像作品を作り続けた。代表作は、『日没の印象』、『15日間』など。
1976年からイメージフォーラム映像研究所専任講師、1990年から多摩美術大学教授を務め、後進の指導にも尽力した。
→鈴木志郎康映像作品リスト(鈴木志郎康HP)