No.3

滝本 誠

 

シンボリックなものの数々
で、ピット作品で排泄されたのがウンチではなく、きれいなアスパラガスだった。アスパラガスの排泄! 便器にアスパラガスがぷかぷか。不思議な光がでてアスパラガスが空中に何本も浮かび上がってきて、それがタイトル「ASPARAGUS」の絵文字を描く。カルトな何かに遭遇した、という予感がすでに確信に変わるのが、このタイトル・シークェンスにおいてである。便器、排泄という「形而下」をきわめたオブジェ、行為が「形而上」的なるものに弾けていく。マルセル・デュシャンの「便器」の「少女的」な解釈をここに読み取ってもいい。
さて、女がカーテンを開けるとそこは不思議な植物が繁茂する巨大庭園が眼前に広がっていて、さまざまな植物がカレイドスコープとして横に移動する。最後にあらわれたのが、大地からニョキニョキと生えたアスパラガスの一群である。すると巨大なむきだしの足があらわれる。そして伸ばした手がこのアスパラガスを前戯の優しい(?)手つきで愛撫ししごく。このエロティックな目配せ。女はテーブルに歩み寄っていく。テーブルの上には、ドールハウスが置かれている。女はドールハウスの横のスイッチをひねりランプに点灯する。2階建で4室構造のドールハウスの一室は、女が住む部屋がそのまま再現されている。その小さな部屋にキャメラが接近する。するとテーブルの上にはまた同じドールハウスがあり……。この入れ子構造のトリッキーさはありふれたものだが、ピットにとってドールハウスはトリッキーなミニアチュールではなく、アーティストとしてのマニフェスト空間にほかならない。「少女的」な。
この入れ子のドールハウスにも女が登場、女は置かれたアンチックな仮面を手にし、顔のない顔に仮面の表情をつける。『アスパラガス』には、多くの解釈へ誘うシンボリックなモノが数多くでてくるが、のっぺらぼうの女の顔、そして仮面もそうした解釈の誘惑へむけて放たれた素材なのだ。


『アスパラガス』

何百人もの観客が動きだすクレイ・アニメ
女はバッグを取り出し蓋をあける。するとドールハウス内の小物、夢の生き物(?) が次々とバッグの中にすいこまれていく。バッグは女の魂とは誰の台詞だっけ? 女はバックを閉じ、仮面のまま家を後にする。大人のオモチャ屋、銃砲器店などを通りすぎ、女が入っていくのは「劇場」である。「劇場」とはピットにとって巨大なドールハウスである。劇場内部からそれまでの2次元セル・アニメから、三次元アニメ、クレイ・ストップモーション・アニメとセルのゴージャスな合成アニメにかわる。何百人はいるかと思える観客のひとりひとりを一コマ、一コマ動かす大変な作業だったと思えるが、それまで一人で描き続けてきたピットもこの「劇場」シークェンスはさすがに五人のアシスト・アニメーターに助力を要請せざるをえなかったようだ。


『アスパラガス』

全てをファンシー化!
ヴィジュアル・オペラといってもいい大仕掛けな舞台アート/映像に興奮している観客を尻目に女はステージ裏へと入り込み、そこで家から持ってきたバッグを開く。すると先ほどバッグに閉じ込めた小物たちが劇場内に漂い出ていくのである。ひそやかな快楽たったドールハウス・プレイがいまや観客をあおりたてるパフォーマンスとして展開する。「ドールハウス」型アーティストの勝利宣言ともいうべきハイライトである。観客の熱狂をあとに女はタクシーに乗り込み帰宅する。また円形があらわれる。円形の中で女はアスパラガスを口にくわえこむ。口の上下運動とともに、アスパラガスは、麺状のものとなったり、たわめた金属状のものとなったり、さまざまに変化していく。ピットにかかれば、フェラチオもかくのごとくファンシー化する(?)のだ。(なんて書いたが、疲れているのでみんな、勝手に何かを感じてください)。

描いた下絵は一万枚!
リンチの『イレイザーへッド』が72年から77年の5年間を費やして完成した執念のフィルムとすれば、ピットも74年から78年まで4年の月日を『アスパラガス』に捧げている。描いた下絵は一万枚! おそるべきパワーではないか?
『アスパラガス』にシンセサイザーによる音楽を提供したのは、音楽家リチャード・テイテルバウムである。彼は1966年にアメリカ人作曲家4人で旗揚げした実験的即興音楽集団ミュージカ・エレクトニカ・ヴィヴァの一員だった。このグループはモーグ・シンセサイザーの使用のかたわら心音、肉声、脳波などを電気的に変形して音楽に取り込むなどの試みをおこなったことで知られる。当時、すでに有名だった日本人の実験音楽家、小杉武久の名前がクレジットにみえるが、彼を参加させたのも、ティテルバウムだろう。
『アスパラガス』の成功の一因は、テイテルバウムの音楽の催淫的な音のディテールと流れにあることもまちがいない。


『ジョイ・ストリート』

モーツァルトのオペラの舞台美術
『アスパラガス』はピットの実験アニメ・フィールドでの名声を確立したが、余波はいろんなところに及んだ。その最たるものが、本格オペラの舞台美術の依頼だろう。83年のモーツァルトの「魔笛」。これはデイヴィッド・ホックニーのオペラ舞台と同じく、3次元の舞台の2次元化といえるかもしれない。背景も室内の調度品も「描かれた」ものであり、フラットなものなのだ。キャラクターのカラフルな衣装との相乗効果もあって、キッチュ極まるモーツァルトとなる。あるいは、な少女が夢見たような人間を人形化したモーツァルト歌劇。まるごとモーツァルト劇をドールハウスのなかで動かす試みといっていいかもしれない。ピットは自分のアート上のモットー(「キッチュとアート、ありふれたものと珍奇なものとの境界線を歩くことを楽む」)を、オペラハウスという巨大なドールハウスで全面展開する機会を得たのだった。『アスパラガス』の劇場シーンを思い起こしたい。「こんなものモーツァルトではない」という評が出たのも至極あたりまえだろう。ただし、モーツァルトをキッチュな性格で捉えなおし、きまじめな神童評価にゆさぶりをかけた「アマデウス」の例もあった。ファンシーなモーツァルト。ただ、フラットでカラフルな舞台における照明の困難さは想像以上のものだろう。ピットに舞台美術を依頼したのは、ドイツ中堅のウェスバーデン・オペラ。演出は斬新な試みで有名なニコラス・リーヘンホルフである。彼の狙いは「魔笛」を、ミュージカル・コメディとして、きわめて通俗的に見せることだった。アメリカ的猥雑さでモーツァルトを再構築しようというわけだ。リーへンホルフはデュッセルドルフのギャラリーでピットの作品のテイストを確認していた。これは『アスパラガス・シアタ−』と銘打ち、ギャラリー内にミニ・ミニ・シアターを組み立て、絵画も絡めメタフィジカルに見る行為を問う彼女お家芸のメディア・ミックス作品である。リーへンホルフは、自分の実験に最適のパートナーとしてピットを選び彼女にオファーしたのである。面白いのは、白羽の矢を立てられたピットのほうが、それまで「魔笛」を見たこともなけれぱ、聴いたこともなかったことだ。


『ジョイ・ストリート』

ノワール系の夢遊の雰囲気描写
『アスパラガス』以来の渾身の力作といえるのが、最新作『ジョイ・ストリート』(1995年)である。作品の出だしはピット作品では異例といっていいほど、アニメというよりいわゆる「映画的」であり、表現主義的である。すさんだ女の部屋には、もはやドールハウスの幸福はかけらも存在せず、ただただ孤独が、腐臭を放っているのだ。「煙草」、「電話機」、「ベッド」がことごとく孤独の表象としで用いられる。さしずめピット流「ノワール」の趣きだ。女は自殺を試みる。ここから、背景、主題のダークなタッチとはまったく異質なキャククター(灰皿の飾りサル)が動きだし、映画に色彩と幸福が回復してくる。サル(もどき)は、女がベッドで動かないこと、手首から血が流れていることを見て、助けを求めようとし、叶わないと分かると目から大粒の涙を流すのである。「不思議の国のアリス」でアリスが流した涙のように、サルの涙は洪水として部屋にあふれる。空き缶、フラミンゴの死体、打ち捨てられた自動車といった腐臭漂うよどんだ水のなかに女は浮いていて、やがて水のなかに沈み込む。世紀末に再浮上した「溺れた女」のモチーフだ。泣くだけでは助からない。サルは巨大化し、女を抱き上げて近くの公園の本の幹の側へ女を横たえる。ここから熱帯系自然楽園幻想が次々と出現し、女を「癒し」ていく。都市のうらびれた孤独を癒す、自然楽園。回復した女ははや、窓をあけ、都会の外気に髪をさらし、生きる喜びをぞんぶんに発散する。明快すぎるテーマがややくさいが、ノワール系の夢遊の「雰囲気」描写はみごとに成熟している。
ピットは、フェミニズム運動が熱く燃え盛ったシックスティーズに表現活動を開始した世代に属するわけだが、フェミニズム的思考はピットにあまりない。本人もフェミニズムを意識することはないようだ。ピットは「インタビュー」誌の取材に答えて次のようにのべている。「フェミニズム・アートへ至る最良の道は、単にいいアーティストになることよ。人は女性もすばらしいアーティストになれることを理解しはじめるでしょう」。

─了─

(たきもとまこと/映画・美術評論)


『ジョイ・ストリート』


『アスパラガス』作品紹介と公開予定
解説:ドールハウスの魔法No.1



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