No.1

滝本 誠

 

『イレイザーヘッド』との併映?
ようやくスーザン・ピット作品を見ることができる! ピット作品がまったく紹介されることのなかったのは不思議なことに思えるほど、ピット作品は傑出したエモーションでわれわれを圧倒する。
お前はピットの名前を知っていたか? と問われれば、ずいぶん昔に活字情報としては、と答えるほかない。ずいぶん前、デヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』のバックグラウンドを知りたく、輪入書店で手にした「ミッドナイト・ムービーズ」(1980年)に、しかも『イレイザーへッド』の紹介ぺ一ジにピットの名前があったのだ。これはニューヨークでレイトショーでのみ公開され、カルト化した一連の映画群の研究書である。『イレイザーへッド』のレイトショーの併映作として、興行主はピットの『アスパラガス』を考えた、というくだりである。あの『イレイザーヘッド』の併映作としてピックアップされる作品とはいったいどのようなものか? スーザン・ピットの名前が脳裏に焼き付けられた記念の一瞬である。もっともすぐに忘れたが。
その後、筆者の関心フィールドは狭く、そこにピットが登場したことはない。今回の不意の出会いを喜びたい。


『ジェファーソン・サーカス・ソング』

ピーター・ゲイブリエルのMTV
アッ、忘てはいけなかった。ピットの名前を意識しなくともわが国でかなり広く(といっても音楽ファン中心だが)人の目に触れた作品がある。ピーター・ゲイブリエルのヒット曲「ビッグ・タイム」(1986年) のヴィジュアルとしてだ。「ビッグ・タイム」は、古代生物(?)めいた美しく奇怪な生き物のダンサブルなうごめき、コイン、サイコロ、ビスケットなどによる「顔」もどきコラージュにはじまり、クレイ(粘土)アニメ、セル・アニメ、オモチャとの合成、立体オブジェの使用とがオモチャ箱をぶちまけたように次々と披露され騒々しいヴィジュアル・シンフォニーを奏でていく。ゲイブリエルはアニメーションがもっとも「音楽」に近いアブストラクトな領域だと理解している数少ないミュージシャンの一人だ。


『ジェファーソン・サーカス・ソング』

ピットの部屋のドール・ハウス
ピットは1943年、カンサス・シティに生まれた。家庭にはいわゆる芸術的環境というものはまったくなかった。帽子作りをてがけ自分の小さな店で売っていた祖母の存在がいってみれば唯一のアート・ルーツといえるだけだ。ピットは幼いころから「絵」に充足するものを見いだし、「絵」ばかり描く美少女だった。なにか、傷つくことがあると、「階上に突進し、自分の部屋に鍵をかけて、絵を描く」日々だったらしい。「絵」を描くことをリアルなものと捉え、現実をアナザー・ワールド視するアーティストの卵特有の「倒錯」、言葉を替えれば自己セラピーの精神風景をはやくもここに見いだすことができるだろう。幼いがゆえにより強度の「倒錯」だ。
この「閉塞」による「自己解放」という「倒錯」はアーティスト・スピリットの「祖型」といってよく、たとえばクリスティーナ・ロセッティの詩の一節「彼女は自分で自分に鍵をかける」をタイトルにしたベルギー象徴派フェルナンド・クノップフの世紀末の名画、また閉塞をきわめた詩人エミリー・ディキンソンの生涯に思い至ればよい。
ピットの部屋には、後年の一種のオブセッシヴなテーマと化すドールハウスがあり、人形遊びによる現実の代行をピットは自分の部屋でおこなっていた。ドールハウスでの「世界ゲーム」の延長にピットのアニメ世界が広がりをみせている、といっていい。少女期の延長としての、ピット・ワールド。これは彼女の絵画作品でも同様で、コミックス、美術史、TVヒーローなどを自在に混ぜ合わせるやりかたもピット的「世界ゲーム」といえるのだ。
とはいえピットは「閉塞」型でありながら、アクターとして人前で自己解放する夢ももった「開放」型少女であった。自分の美しさの自覚は早くからあったはずだ。


『ジェファーソン・サーカス・ソング』

絵画から8ミリ・キャメラへ
クランブロック・アカデミー・オブ・アーツに学ぶわけだが、教師はピットの才能を認め、特別扱いを許している。美人に教師は弱いのは万国共通。セクハラとかは大丈夫だったのだろうか? 学校でピットは自分の個室アトリエを持ち、そこで巨大な人物油彩画、版画、オブジェ、手作り本の制作に励んだ。アクターへの道は自分が大根役者だと納得、断念する。しかし、タブロー・オンリーから、アニメやミックス・メディア的アートの形態へピットを導いたのは、アクター志向がもたらした舞台/ショーへの関心だった。ちなみに画室ではリチャード・リンドナー、デイヴィッド・ホックニー、フランシス・ベーコンが学生時代のピットの好みだった。特にドイツからの移民画家リンドナー流儀のポップ・アート絵画のきらびやかな色彩、形態、人物の仮面的表情はピットに多くのアイデアをもたらしたと思われる。


『ジェファーソン・サーカス・ソング』

卒業後、ピットはいくつもの美術学校で生徒を教えながら絵を描き続けていたが、あるとき8ミリ・キャメラを手にする。このキャメラで自分の絵を覗いたとき、天啓が訪れるのだ。キャメラのフレイムに切り取られた自分の絵がよりなまなましく見えたからだ。ピントは思い立ち、200枚(!)のドローインクをわずか1か月半で仕上げるタフネスぶりを発揮し、それを8ミリ・キャメラでコマ撮り実験する。こうして、ピットは「動く絵」の魅力にとりつかれた。この最初の作品が扱ったテーマはセックスと誕生らしい。見ていないのでコメントは控えるほかはないが、当然、シックスティーズという性的表現にほぼ無限定の自由が与えられはじめた時代を反映した、しかもプライベート・フィルムということもあっての大胆な実験アニメであろう。想像するだに見たい!
たとえば一枚の絵でも、フルに捉え、ディテールへと寄ったり、急激な動きをみせたりすることで、静止画でも「動き」のイリュージョンは出せる。音楽をつければ効果はなかなかのものである。タブローをセル画扱いで使用、200枚も描けば、立派な(?)アニメだろう。まして、アニメ狙いの描線ではなく、アートよりの描線なら、見慣れない奇妙な「味」でフレームは満たされる。


『アスパラガス』

劇場、野菜、セックス
アニメーションにとりつかれたピットはブルームフィールドヒルズ・アート協会、聖ポール・アート・センター、ウォーカー・アート・センターで持っていた絵のクラスを、生徒たちをどう説得したか判らないが、ことごとくアニメクラスに変えてしまうのだ。
しかも、結婚相手は都合よく映画作家でもあったアラン・クラニングだった。
ピットの最初の16ミリ作品『Bowl, Theater, Garden, Marble Game』(1969年)も見ていないが、紹介文によると、『アスパラガス』以降のピット作品を特徴づける「劇場」、「野菜」がすでに顔をみせているらしい。セックスがテーマでもある事実上のデビュー作『クロッカス』(1971年)を見た家族の反応は想像したとおりのものだった。つまり母親はショックで失神状態になったのである。「なんでこんなもの撮るの? 私はとんでもない子を産み落としたのかしら?」


『アスパラガス』

「なんでこんなもの撮るの? 私はとんでもない子を産み落としたのかしら?」
この母親のセリフは、さかのぼればシャルル・ボードレール「悪の華」の巻頭詩を思わせ、また『ピンク・フラミンゴ』を撮ったジョン・ウォーターズの母親のそれを思わせる。自分の子供が「頭の病気ではないか? 悪魔憑き?」というまっとうな恐れ。ヤンキーなヤン・ママの東京とは異なり、カンサス・シティは、セックスは白く梱包されて、人が触れるのを阻んでいたモラリッシュな土地柄だった。少なくともピットが少女時代を過ごしたころは。といってもこんなのは、よくある世代断絶の一バリエーションにすぎないだろう。まして予防なく見せられて、驚かない親などいないかもしれない。ピットと母親の関係はこれを機に最悪のものとなった。
関係の修復は長くかかったが、母親に諦め(?)と賞賛をもたらしたものは『アスパラガス』だった。78年のニューヨークでのオープニングにピットの一族(父親はすでに死亡していたが)がそろって参加、母親は『クロッカス』のときと同じくまったく理解できなかったようだが、コメントが泣かせる。「私にはこれらのものをお前がどうして思いついたか判らないわ。何を言おうとしているのかも理解できなかった。でも、感動したわ。すばらしい作品よ」。                            (たきもとまこと/映画・美術評論)


『アスパラガス』

─以下、次号に続く─

『アスパラガス』作品紹介とビデオ
解説:ドールハウスの魔法No.2



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