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No.2

滝本 誠

 

ホイットニー美術館のCM
『クロッカス』はかなりの注目を集めることになったが、これを見たホイットニー美術館は彼女にアニメ制作を依頼する。美術館のプログラムのひとつ、インディペンデントの映画作家助成のための基金集めのコマーシャル・アニメである。これは73年から2年間美術館で流された。
この公共広告アニメの内容は次のようなものである。ホイットニー・ミージアムと描かれたドア・ノブをまわすと、そこにはカーテン付きの木製ボックスが置かれていて、横にコイン入れがある。箱の中に男が出てきて、「このプログラムはあなたのサポートなしに続きません」なんてことを言う。花とかキノコ、ニンジンを入れると、カーテンが引かれ、アニメ映像が移り、最後に基金への参加を求めるメッセージを男が述べて終わり。バラの花びらを入れたときには、あからさまにセックスの恍惚(抱き合う男女の画面に背を向けた裸体の男の背中を女がまさぐり続け、女の上気とともに男はシルエットの存在となり、そのシルエットをスクリーンに、さまざまな風景が映し出される)を扱っている。男の背中がマグリット的でニヤついてしまうわけだが、仮にも美術館の公式コマーシャルである。いいのか? カンサスではなく、ここはニューヨークなのだ、というしかない。
これを見てニューヨーク市がリンチに依頼したニューヨーク・クリーン化キャンペーンのテレビ・コマーシャルのことを連想した。都市のエントロピーに美を見いだす、つまり汚れに美をみいだすリンチにクリーン・メッセージを託すブラック・ユーモアと度量に関してである。同じ思いをこのホイットニー美術館の発注者にも感じてしまう。アメリカのすごさはこういったところにある。


『ジェファーソン・サーカス・ソング』

少女的フェリーニ!
1973年に制作されたのが、『ジェーファーソン・サーカス・ソング』である。アニメと人間のアニメ化(ライブ・ストップ・アクションに古風なコマ落し)を混在させた作品。人形のように化粧を施された二人の少女は、ピットが教えていたウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)の絵画教室に通っていた生徒である。
まず、映し出されるのは疲れ果てた表情をして列車に乗っている老女である。列車の進行が過去への遡行を意味する、少女時代という失われたパラダイスへの心地よい退行というアイデアが作品の核である。この場合、やはりドールハウスへの退行といえる。パラダイスとしてのドールハウス・オブセッションはあからさまである。そしてシャム双生児、他への独特のサーカス・サイド・ショー的フリークス感覚。一言でいえば、「少女的」フェリーニ! といえる世界をピットは構築した。可愛く(?)、グロテスクな生き物(?)との接吻とか、格別の法悦をもたらすピエロ・メイクとか、ビザールなまでに「少女的」である。
多少、集中度が低下したかの印象もあるのは、制作時期にピットが困難な問題を抱え込んでいたからかもしれない。このアニメを完成した直後にピットは愛する男(亭主ではない、もちろん。いわゆる不倫である。夫とは一年後に離婚)を追って、3歳の息子ブルーを連れて、オランダへ渡るからである。この燃え上がった恋の火は3カ月で早くも消えるが、ピットはオランダにその後もl年近く残る。彼女はだれひとり知人のいない異国にお金もなく子供とともに取り残されたのである。この苦境を乗り越えたとき、ピットは真にタフな女性になり、彼女が脳内に炸裂させるヴィジョンも、神秘的なまでにパワーフルなものになっていく。
作品があれば、言葉はいらない。ピットは自作をなによりも雄弁な名刺として、ヨーロッパの映画作家たちと交流をはじめ、ドイツに住むことを条件に映画制作の助成金を獲得することになる。こうして、ピットにはカルトな傑作『アスパラガス』制作への道が開かれた。


『アスパラガス』

ドールハウス革命
「ドールハウス少女」だったピットの子供時代についてはすでに触れたが、文学/社会学の文脈で「ドールハウス」といえば、ノラをヒロインにしたイプセンの「人形の家」が典型的に示すように、それ自体が「女性の立場」のメタファだった。男にとって女性は可愛い人形でありさえすればいい、というわけである。このメタファは根強い。たとえば、ティム・バートン『バットマン・リターンズ』のノラを変奏するのはミシェル・ファイファーである。
内気でドジな秘書にすぎなかったミシェル・ファイファーの部屋にはドールハウスがあった、というがミシェルの部屋自体がドールハウスだった。しかし、秘密を握り、ボスに窓から突き落とされ、猫に命を救われた後ミシェルはキャットウーマンに変容する。自分の部屋に戻ったミシェルはドールハウス、そしてファンシー系の自室を破壊しつくすのである。フェミニズム運動も表立ってはあらわれず、「郊外の家」というドールハウスに60年代半ばまでに青春を送った少女たちにとってTVのバットマンシリーズで見るキャットウーマンは「自由」を意味していた。その思いをまさに目に見えるかたちでバートン/ミシェルは『バットマン・リターンズ』で示したのだった。ドールハウスの破壊は女性の新たな生まれ変わりと同義なのだ。しかし、本来ドールハウスの支配権は、少女のものである。少女が自分だけの世界をどのようにも作り上げることができるラディカルな世界がドールハウスといっていい。ダークサイドを含めた「少女世界」のラディカルな心理学をドールハウスに込めること、おそらくこの心理領域がスーザン・ピットのドールハウスなのだ。あるいは世界の化という究極のドールハウス革命、それはすでにミニアチュールではなく、現実を飲み込むメガ・ストラクチャーとして機能する。
さて、ピットが世界のドールハウス化を夢み、加えて男社会の根っこそのものである男根優位思考に過激にくすぐりをいれた(?)『アスパラガス』(1979年)を見てみよう。


『アスパラガス』

かわいくヘンなものをひねりだしたい誘惑
画面に円形があらわれ、中から女の足が突き出される。そして女の足に絡まり巻きつきヘビが這い出てくる。蛇は円に体を巻きつけて、ペロペロと長い舌をだす。そしてこの舌が「SUZAN」そして、「PITT」と文字を描く。イヴと蛇、つまり女と男根という古風な引喩の連想に見るものを誘う導入部だ。円はヴァギナか? この円が引いて、部屋のディテールがアップされる。濃密に描きこまれた室内調度。このシークェンスで驚くのは、便器が大写しされることだ。アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』(1960年)が便器を大写しにしたとき、当時の観客はショックを受けたらしいが、このアニメが世に出たのはパンクな78年である。それでも観客はギョッとしたにちがいない。何が起こるのか? この便器で?
女はナイトガウンをたくし上げ(ノーパンである。女はノーパンがいい)、便器に排泄する。観客は排泄行為を目にするわけだ。赤裸々に自分をみせる衝動は、シックスティーズのアンダーグラウンド・ムーブメントのなかで顕在化し、コミックスのジャンルでは、ロバート・クラムなどが露出狂的なまでに、自分のセックス観を描きこんでいたものだが、「排泄」も、アングラ系の定番ではあった。基本的にいえば、親が顔をしかめるものならすべて良しとされたのが、シックスティーズ革命だった。
なんて書いてもしかたがない。女の子は時々、かわいくヘンなものをひねりだしたい誘惑にかられることがあるそうだ。ウンチも「少女的」なのである。男は肛門排泄にさほど意味をもたせることはない(よね)。


『アスパラガス』

(たきもとまこと/映画・美術評論)

─以下、次号に続く─

『アスパラガス』作品紹介とビデオ
ドールハウスの魔法No.3



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