第三部

(28)
エルムショルンで、アドルファスは強制収容所時代に、私たちのベッドの置いてあった正確な位置に、横たわってみせる。誰に聞いても、ここに収容所があったことを、覚えていない。ただ窓ガラスだけが、そのことを覚えている。

(29)
ゲブルーデル・ノイネルトにあった工場が、まだちやんと残っていた。私たちはここへよく、フランス人やロシア人やイタリア人の捕虜たちと一緒に、働きに連れてこられた。私が作業をしていたベンチまである。ここで私は仕事がのろい、口答えすると言って、殴られてばかりいた。職工長はアドルファスのことを覚えていた。二人は思い出話に花を咲かせた。あの頃は、この職工長は若くて、親切な人だった。1945年の三月に、私たちはここを脱走して、デンマークへ向かった。しかし私たちはデンマーク国境でつかまって、もとの収容所に船で送り返される途中、もう一度脱走に成功して、戦争が終わるまでの間、シュレズウィグ=ホルスタイン地方の、とある農場に隠れていた。

(30)
弟は外を見てまわりながら、思い出にふけっていたが、そのまわりを子供たちが取り巻いていた。なんてへんてこりんな人たちなんだろう。こんなとこへやって来て、物思いにふけってる、と子供たちは思っていただろう。アウスランダー、本当に変な外国人たちだって。そうだ、走れ、子供たち、走るんだ。私もかって、ここから走り出した。しかし、それは命をかけた走りだった。そんなふうに、君たちが命がけで走ったりすることのないように。そう、そうやって走るんだ、子供たち。

(31)
私はペーター・クーベルカを見つめた。まったく彼がうらやましかった。彼の静けさ、穏やかさ、空間の中でも、時間の中でも、心の中でも、文化の中でも、自分の周りに集められ、自分がなじんできたものに取り囲まれて、いつも自分らしくふるまうことのできるペーターに。

(32)
アネット。彼女はニューヨークにいてもウィーンにいても、同じように楽天的で大胆でいることができる。なんてすばらしい女性。なんてすぱらしいアネット。文化の根を、自分の生命の中に根づかせることのできる人。

(33)
これがヘルマン・ニッチ、自分の得たヴィジョンを追求して、一歩の妥協も許さない、雄々しい人。そしてこの人はケン・ジェイコブス、子供の目を持って世界を、歓喜の中で感じ取っているものの純枠性を、尊重しきれる勇気を持った人。何千年もかけて、人間たちによって、打ち立てられてきた、ある質や水準は、私たちがいなくなっても、地上に残る。

(34)
クレムスミュンスターの修道院を訪れるあの時、私はついにウィーンにたどり着くことができなかった。しかし数奇なめぐり合わせで、私はここにやって来ることになった。ぺーターと一緒にウィーンを歩き、話をし、画廊や修道院やデーメル菓子店やワイン倉やワインの林を通りぬけていくうちに、私はふたたび、人間の精神を破壊することはできない、という確信を抱くことができるようになつた。

(35)
あの夏の夜、私たちは数人の友人とともに、クレムスミュンスターの、1200年も前の古い修道院の屋上に立っていた。夕暮れが近づき、陽は沈みかけ、あたりを青い光がおおっていた。たとえようもない穏やかさ。心も気分も上々だった。

(36)
遠出をしてウィーンにもどる途中で、私たちは遠くに火事を見た。ウィーンが燃えていたのだ。野菜市場が火に包まれていた。「ひどいな」とぺーターが言った。「ここはウィーンでもとりわけきれいな市場だったんだ。この市場の取り壊しをもくろんでいた市が、火を放ったんじやないか。彼らは近代的な市場にしたがっているんだ」。

追憶の終わり


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