『リトアニアへの旅の追憶』より/1971年、母エルジュビエタとジョナス・メカス

1922年
12月24日リトアニアのセミニシュケイの農家の5人兄弟の4番目として生まれる。
1940〜
1942年
ソ連軍(赤軍)、ナチス・ドイツによるリトアニア占領。
1944年
弟アドルファスと文学週刊誌の編集に携わる。反ナチ新聞の発行が発覚し、ハンブルグ近郊のエルムスホルンの強制収容所に捕らわれる。
1945年
収容所を脱走、難民キャンプを転々とする。
1949年
ハンブルク港から出航、ブルックリンに移り住む。
1950年
職を転々と変えながら、初めてのボレックス(16ミリ映画カメラ)で、当時住んでいたウィリアムズバーグとリトアニア系移民を撮り始める。
1952年
ブルックリンを撮影したフィルムを編集。
1954年
「フィルム・カルチャー」誌を発行。
1958年
「ヴィレッジ・ヴォイス」誌に「ムービー・ジャーナル(映画日記)」を連載(76年まで継続)。
1960年
「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」を結成。メカスがマニュフェストを書く。
1961年
『樹々の大砲』(1960〜61年撮影/75分)
「フィルムメーカーズ・コーペラティブ(映画作家協同組合)」を組織。
1962年
ブリーカー・ストリート・シネマにて独立映画、アンダーグラウンド映画の上映を組織。
1963年
映画祭でのジャック・スミスの『燃え上がる生物』の落選に抗議。
1964年
『営倉』(68分)。翌年、ヴェネツィア映画祭ドキュメンタリー部門で最優秀賞受賞。
『燃え上がる生物』とジャン・ジュネの『愛の唄』上映で逮捕。
「フィルムメーカ一ズ・シネマテーク」を組織。
1966年
『サーカス・ノート』(12分)
1967年
『日記、ノート、スケッチ』(1964〜69年撮影/180分)
1971年
夏、リトアニアに帰国。
1972年
「ヴィレッジ・ヴォイス」誌に連載していたコラムをまとめた「メカスの映画日記」を刊行。
『リトアニアへの旅の追憶』(1950〜72年撮影/87分)
1973年
新宿の紀伊國屋ホールで『リトアニアへの旅の追憶』初公開。
1974年
ホリス・メルトンと結婚。長女ウーナ誕生。
1975年
『ロスト・ロスト・ロスト』(1949〜63年撮影/176分)。ベルリン映画祭、ロンドン映画祭、アムス テルダム映画祭参加。
1977年
リトアニアに再び帰国。
1979年
『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』(1977年撮影/90分)
1981年
長男セバスチャン誕生。
1983年
アンソロジー・フィルム・アー力イブス設立計画のために初来日。
1985年
『時を数えて、砂漠に立つ』(1969〜85年撮影/150分)
1987年
「メカスの友人日記」脱稿。
1988年
『ウォルデン』(1964〜68年撮影/67年の『日記、ノート、スケッチ』の再編集版/175分)
1989年
20年がかりのアンソロジー・フィルム・アー力イブス(映像美術館)がようやく開館。
1990年
『ライフ・オブ・ウォーホル』(1965〜82年撮影/30分)
1991年
『ジェローム・ヒルによるカール・ユング博士の記録映像、あるいは「賢者の石」』(1950年、ジェローム・ヒル撮影/29分)
『ザ・テーブル』(ビデオ作品/28分)

イベント「メカス1991年夏」のために2度目の来日。
1992年
『セバスチャンの教育、あるいはエジプトへの回帰』(ビデオ作品/351分)
1995年
愛知芸術文化センターにて特集上映会「ジョナス・メカス 魂がとらえる映像の詩」が催される。
1996年
ジョナス・メカス詩集「セメニシュケイの牧歌」「森の中で」(書肆山田)がリトアニア語から邦訳され刊行され、イベント「メカスの旅/1996年・春」のため3度目の来日。NHKで特集番組が放送される。
『リトアニアへの旅の追憶』が35ミリにブローアップされ、日本で初の劇場公開。


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