[映画講義]
映画の本質に向けて
 講演再録

ペーター・クーベルカ



『われらのアフリカ旅行』


『自信にモザイク』


『ポーズ!』


『アデバー』


『アデバー』のフィルムを
並べるクーベルカ



『シュヴェカター』




『アーヌルフ・ライーナー』

形態自身が何かを語る

まず、日本に来て自分の映画を上映できることを光栄に思います。私自身若いころからこの国の文化に対して非常に尊敬を持っていました。日本に来るのは今回が初めてですが。

最初に私自身の作品と、皆さんとの間に一つの橋を架けてみようと思っています。なかなかうまくはいかないでしょうけども、出きるだけ簡潔な言葉で。

映画は若いときからの私自身の情熱の対象でした。18才になるまでに私は映画作家になろうと決意をしていました。もともと私は商業的な映画館でかかっている映画の役割に決して満足していませんでした。芸術作品を鑑賞するとき、その目的というのは、作り手の思考を通じて世界を見るということだと思います。アーティストはある一つの形を創りだします。その形は我々の感覚を刺激するものです。例えば絵画、音楽、映画であれ、それらはある一つの目的に到達するために形作られるのです。その目的とはその形態自身が何かを語るということ、それによって人が何かを得ることができるということ、すなわち創り手が何を感じて欲しいか、あるいは感じて欲しくないかを見ている人が知ることができるということなのです。

映画の親からの解放

映画とは、人類が石器時代以来初めて(ラディカルに)獲得した新しい言語だと思います。新しいメディアというのは小さな子供のようであり、当然その親に影響を受けているものです。映画は演劇に似ている部分があるし、ある時期は演劇の再現であったこともありました。映画はすぐに産業の中に身を置くようになりました。その後、アヴァンギャルドと呼ばれた人達が映画の本質を見つけようと試み、映画の親である演劇の重みから映画を解放し、映画の魂のようなものを見つけようと試みました。そして私の人生の目的も、映画の本質へと向かうことでした。まず『われらのアフリカ旅行』を上映します。事前に作品についてのコメントをするつもりはありません。それは見る人自身が作品と遭遇して欲しいからです。芸術作品を観賞するというのは、人間に初めて会うのと同様の体験だと思います。

 ─『われらのアフリカ旅行』上映

映画は要素と要素の間で何かを語るもの

もしあなた方がこの作品を通して私が言いたいと思ったことを理解することができたなら、私が頭のなかで考えていることを皆さんがご覧になっているということです。私は現実に起こったことを伝えているのではありません。ある出来事についての私の意見を伝えているのです。通常のドキュメンタリーの様に、作者の意見があらわれるナレーションというものはこの作品には存在しません。私はこのアフリカ滞在で6週間もの間、視覚的な素材、聴覚的な素材両方を集めてきました。この映画のなかでは実際に起こったことしか描かれていません。後で付け加えたり、混ぜ込んだりしたものは一切ありません。

では、映画とはいかにして語るものなのでしょう。大事なことですが、映画は要素と要素の間で何かを語るものなのです。それがコミュニケーションにおいてどういった役割を果たすかをまず言いたいと思います。言語とはどう働くかをデモンストレーションしましょう。今から2つの単語を言います。それによって二つのイメージを頭の中に描いてください。

馬....走る....夜....雨。

....まず私が「馬」と行ったとき皆さんはそれぞれ立っている馬や座っている馬を想像したでしょう。しかし私が「走る」といった後ではそのイメージは変わってしまったはずです。「夜」というとまたイメージが変わってきます。もう一度初めからやり直しましょう。

馬....ステーキ。

もう馬のイメージは頭の中にないのではないでしょうか。でも最初に発したのは同じ「馬」という言葉です。つまりは、言語というのは単語ではないということなのです。言語とは単語と単語の間に発生するものなのです。

音楽はどうでしょう。(....例。クーベルカ氏歌う。)音楽もやはり音と音の間に意味が派生するのです。

絵画はどうでしょうか。(....例。クーベルカ氏、絵を描く。)絵画も然りです。

映画は神のごとくリアリティーを創造する

では映画ではどうでしょう。映画とは一つのイメージと次のイメージの間において何かを表現することです。そしてイメージと、同時に流れてくる音との間でも語ることができます。ある映像とその後に流れてくる音との関係で語ることもできます。逆もまた言えます。

もう一つの重要なことは、映画は時間を蓄積できるということです。自然というのは決して変えることのできない出来事を提示します。紙を破ると必ず音がしますね。(クーベルカ氏、紙を破る。ビリビリと音がする。)地球上では誰も音をたてずに紙を破ることはできないのです。生きていくうえで私たちは音を聞いて自分の記憶に照らして何が起こったかを判断します。音だけを聞いて紙が破れているということが分かります。見る必要はありません。私は皆さんがリアルだと思うものを提示します。映画というのは神のごとく私自身のリアリティーを創造してくれます。だからアーティストはクリエーター(創造者)と呼ばれるのです。

音は動詞、映像は名詞

サウンド映画の偉大さとは映像と同時にある自然音をそのまま提示することではない。映画は作者に映像と音を分離することを認めてくれます。映画では音もたてずに紙を破ることができます。もちろん、逆に音をたててイメージを写さないこともできます。こうすることによって、音と映像についての私の考えを表す可能性を私に与えてくれるのです。紙を見せながらこういう音を聞かせることもできます。(クーベルカ氏、紙を破りつつ叫ぶ。)

メタファーとは元々ギリシャ語では何かを越えて、あるいは何かをともに持ってくるという意味です。ここではメタファーの第一の要素としてまず紙が破れるということがあります。第二に別れを惜しむ叫び声。(クーベルカ氏、紙を破りながら「オーノーやめてー」と泣き叫ぶ。)このように私の映画は語られる。

私は自然の法則にしたがったサウンド映画を作りたいと思っている。つまり全ての動きが音を要求する映画です。なぜなら人間というのは状況の変化というものを分析するのに非常な関心を持っているからです。我々は常に自分の安全を分析しています。例えば私の後ろで足音がしたら私は確認せずにはいられません。変化というものは肉体の動きによってもたらされるものなのです。全ての動きには音があります。動きがなければ、音がない。何かが止っているということはつまり何も聞こえないということです。つまり私たちは音と動詞というものを比較することができるのです。映像はそれに対して名詞と呼ぶことができるでしょう。映像とはそれが何であるかを表します。音と動きはそれが何をしているかを表します。

何度も見るために作られた映画

もう一度先ほどの映画を見てもらいます。この映画は何度も見るために作られた映画なのです。できるだけ全ての動き、全ての変化を追って、映像と音を比較してみてください。そうすれば全ての要素がお互いに関係していることが分かるでしょう。私はこの関係性において私の言いたいところを表現しているのです。

 ─『われらのアフリカ旅行』再び上映

二度見て少しまた意味が広がったのではないでしょうか。私はいつも映画を、決してジャーナリスティックなものではなく、詩にたとえられるような何かにしようとしてきました。新聞というのは一回だけ読めば十分なように書かれています。よい詩というのはその読み手の全人生のなかで、あるいはその人生を越えて輝き続けるものです。通常の商業映画というのはこのような複雑性を持ちえません。この映画の素材を集めるために5年間かかりました。私は全ての素材を暗記できるぐらい分類して、編集して、一編の詩になるように作り上げました。

アヴァンギャルドには伝統が必要、伝統にはアヴァンギャルドが必要

次に私の処女作を見てもらいます。そうすれば私がどういった地盤から最初の一歩を踏み出したかということが分かるでしょう。私たちは我々以前に存在した人々が築いた場所から立ち上がっていくものです。私の人生で次第に私は伝統というものに興味を持つようになりました。私には伝統とアヴァンギャルドの間には溝がないと思っています。アヴァンギャルドには伝統が必要だし、伝統にはアヴァンギャルドが必要なのです。それでは1955年に作りました『自信にモザイク』を見ていただきましょう。

 ─『自信にモザイク』上映

この映画ではある重要な決断をしました。その決断というのは若い映画作家には興味深いものだと思いますし、私はそれを伝えるためにこの講演をしているようなものです。

ゲリラのように作品を奪い取る

この映画はある依頼のもとに作られたのですが、ご覧になったように戦後の話で、亡命者などが出てきたりします。脚本をいろいろなところに提出した結果、ある社会慈善団体から製作費をもらいました。撮影を終え、それをまとめあげようとしましたが、私は全く自分の撮ったものが気に入りませんでした。脚本をもとに作ったものは非常に退屈になるだろうと思いました。そこで私は自分の人生を変える決断をしました。脚本を無視し、フィルム自体の流れが生きるように編集しなおしました。私は全てのカットを自分が気に入るまでやり直しました。結果的に、話の筋は少し違ったものになってしまいました。この映画は上映された際、大きなスキャンダルをよびました。性的なあるいは政治的なタブーを破ったわけでは特にないのに。なぜそう話題になったかというと、私が既存の形式を破ったからだったのです。こうして私は映画業界から絞め出されました。私は決して自分でアヴァンギャルド作家になろうとは思っていませんでした。私は靴職人が靴を作って生活を営むように、職人のように映画を作りたかったのです。しかし驚いたのは社会がそれを許さなかったということです。そこで私はゲリラのように、自分に制作を依頼した人から作品を奪い取るような作家になりました。では次の映画をお見せします。

 ─『ポーズ』上映

目と耳を別々に働かせる

どういった時にどう動いたらよいのかということは人の動きを見て学ぶものです。それは自然を分析することによって得られる知識ではありません。ここでは人物が作る顔の表情、そしてその人物が出す音のみを通して、感情を蒸留することを目指しました。この映画では常に音と映像は同期しています。この作品は映画の観客が目と耳を別々に働かせることができるという事実にもとづいて作られています。

人間というのは基本的に目と耳を同時に働かせるものなのです。もし私がここに指をあてたらこれはそれは重要だ、とか危険だということを表します。あなた達からこの指は離れているのでそう重要でないように見えるでしょう。緊張していたり不安だったりする人間には自分がたてる音も聞こえているのです。

私は被写体にマイクを付けて彼らの出す音を拾いました。そうすることによって普通人が聞くことのできない音を聞くことができるようになるのです。つまり、この作品は映画は視覚と聴覚を一度切り離し、再びスクリーン上で新たにつなぎあわせることができるという可能性を示しているのです。だから実際現実にものを見るよりも強い体験を得られるのです。これから私が「メトリック・フィルム」と呼んでいる3本の短編を見ていただきます。

 ─『アデバー』上映

暗闇の中でしか存在できないもの

これは私が「自信にモザイク」の後に作った作品です。これも「自信にモザイク」同様、出来上りに満足しませんでした。私が映画と共に生きようと思い立ってから、私は常に先人達が音楽やダンスなどで得ていたエクスタシーを自分の映画の中に取り入れたいと思っていました。石器時代の人間達は酒をのみ、火を焚き、ダンスを踊ってエクスタシーを得ていました。そういった陶酔の中、彼らがきっと考えていたのは、「自分達は一体何をしているんだろう」というようなことでしょう。私は私自身の手で、エクスタシーが得られるものを作りたかったのです。それはきっと美しい存在、つまり映画そのものと一致するはずのものに違いないと思いました。

映画とは完全な暗闇のなかにあらわれるものなのです。そして外界の雑音から遮られた静かな場所にあらわれるものです。そういった状況でしか見ることのできないものなのです。映画を見るということは、外から来て、腰をおろし、そこで起きる出来事に完全に身を委ねるということなのです。例えばテレビはどうでしょうか。テレビは環境の一部となっています。それは何か動くイメージが写る家具にしかすぎません。シャワーを浴びながら、あるいはトイレにいながらでも見れます。テレビを見ながら他のことだってできます。切ったり、つけたり。チャンネルを変えたり。音だって大きくしたりソフトな音質にすることができる。完全にあなたのお望みどおりです。映画には光があるところでは存在しえないという欠陥があるのです。この欠陥こそが映画を今日我々が経験することのできる最も深く強烈な出来事に仕立てあげているのです。もし今の映画をテレビでやったらとてもひどいものになると思います。これは暗闇の中でしか存在できないものなのです。もう一度見てもらいましょう。

 ─『アデバー』再上映

映画は童話よりも、ギリシャの神殿に似ている

ここにあるのは原始時代から繰り返されてきたたリズムというものです。この映画を構成する要素全てが同じ長さか、あるいはその倍、または半分です。16個の要素が全てポジとネガの関係で存在しています。この映画のテーマは、ある人に会いに行って、その人に触れ、再び離れていくというものです。私はこの作品で通常の商業的な映画が一時間以上使って表現する筋を1分半で描いたのです。

私は劇映画が受け継いできたような、文学からの遺産だけを追及していません。映画には他にも絵画や音楽といった先祖があるのです。人間の存在には2つの描き方があります。一つには直線的に物語をたてるということです。生まれて、育ち、誰それに恋をして死んだ...などなど。全ての人間がそれぞれの物語を持っています。もう一つの見方というのは、全てのものが円環であると認識することです。全ては繰り返される。心臓、息、足の歩み、朝、昼、夜、人間の人生、全て繰り返す。

世界を最も円環的に捉えているのは音楽です。リズムは繰り返し、エクスタシーに導きます。私は映画の中に、測量可能(メトリック)な視覚を導入しました。これは物事を構築するということとは根本的に異なっています。映画は童話よりも、ギリシャの神殿に似ていると思います。すなわち細部を作っている段階で全体を思い描いているという点で。

次の映画を見てもらいます。私はこの映画を作って、映画の本質に向けてもう一歩進んだと思っています。さっきの『アデバー』は1957年制作、次の『シュベカター』は1958年制作です。1分の作品です。2度上映します。

 ─『シュベカター』上映

この映画をご覧になってこの作品の何が魅力かということはお分かりだと思うのですが、一言で言えば、その魅力とは目まぐるしいスピードとメトリックな構造でしょう。

映画は動きではない

この映画を作るにあたって2、3の面白い話があります。大きなビール会社から映画を作ってくれという依頼がありました。若い才能として映画作りに登用されたのです。才能を持つということはつまり、売るべきなにかを持っているということです。宣伝用の映画を作れという依頼でした。最初から向こうの要望に応えなかったので、結局会社側は間に弁護士をたてて全てにわたって撮り方を強制してきました。

この映画を作るのは本当に戦争のようでした。この時点で既に私は、彼らにはわからないことを理解していました。彼らは非常に保守的な映画理論しか持っていなかったのです。つまり映画は動きであるという概念、カメラがあってなにかそこに動くものを撮ればそれは映画であるという考えです。

私はもっと違ったことを知っていました。映画は決して動きではありません。スクリーンの上で映画は決して動かない。映画とは静止したイメージを規則的に投写することなのです。フィルム自体を見れば分かります。映像は一つ一つつながっています。そのつながりからリズムが生まれるのです。

映写機は一秒間に24コマのイメージを規則的にスクリーン上に投射します。そして私がその全てのコマを取捨選択できるのです。ほとんど原始的な技術で。例えばハサミを使って、フィルムを切る。これで24コマのうちのひとつを映写できるようになったわけです。

炎のゆらめき、雲の移ろい、河の流れに映画を感じ、それを通して宇宙を見ていた

映画は撮ったもののある一部だけを取ってくることが出きます。「一部だけを取りだす」ということは言い換えれば「分析」といったちょっと哲学的な言葉になります。そして私は私の好きなようにその部分達をつなぎ合わせ、統合することが出きるようになるのです。映画はその構造そのものが哲学において人間のコミュニケーションとして語られてきた内容と一致するのです。

私が作りたかったことを言いましょう。私は円環的な視覚的出来事に興味がありました。さらに私は決して混沌ではなくそこに規則が存在する、自然が持つ複雑性に興味を持ちました。例えば河の源流。水は規則的に沸きだします。河は石にあたると流れを変えます。他の流れが流れ込んでまた少しリズムを変えます。橋の上から下をのぞくと私の上には雲が流れ太陽がかがいていて、河の表面の光を変えます。雲は風によって動きを変え、風の流れは山の木々によって影響します。それはとても複雑なものですが、決して混沌ではありません。決して見飽きることのない様々なヴァリエーションがそこには存在します。そこには映画の原型、答えがあります。

私は小さいころ牛を飼っていました。7、8歳の時に友達と焚火をしました。炎のゆらめきは何時間見ても飽きませんでした。私はそこに映画を感じました。空の雲の移ろいにも映画を見ました。牛を追いながら見た、橋の下の河の流れにも。石器時代から私たちはこのように映画を見ていました。そしてそれを通して宇宙を見ていたのです。

フィルムのコマで自然の法則を作り上げる

この映画を作るにあたって、私はきれいな女の人がおしゃれにビールを飲み干すという素材を集めました。胸のきれいな人がシャンペングラスにビールをそそぐ。それはビールというものを高級なイメージにするものです。建築家がれんがを集めるように一つ一つ私は素材を集めてきました。私にはお金がなくて、カメラにはファインダーがついてなく、マガジンの中にもほんの少しのフィルムしかありませんでした。非常に古い手回しのカメラを、ビールの樽の上において会社に従うことの象徴としました。私はそうして撮った素材の中に、ウエイターがビールを運んでいくという30コマのシークエンスを見つけました。その30コマで繰り返しを作りました。たくさんの30コマのループを作って全体で1分にしました。

そうして私は自然の法則を作り上げたのです。作品のなかでそれぞれのリズムが表現されることによって、私はかつて見た河の流れの中に見たを再現したのです。これを1分間の中で表現しました。しかし映画は1分間、つまり60秒のそれぞれに24のコマ存在するということは、1,440の異なった視覚情,報を持っているのです。自然の法則にしたがっているだけではその1,440の情報の持つ力を得ることはできません。映画以前には誰もそのようなリズムで視覚的な出来事を把握するものはいませんでした。私の映画が好きであろうと嫌いであろうと、ともかくあなた方はこのスクリーン上でしか見ることのできないものを見ているのです。

この映画によって私は新たな考えが得られました。もう一度見てみましょう。是非生き急いでこの映画を見てください。そうすればこの映画を簡単に理解できるでしょう。

 ─『シュベカター』再上映

次にもう一本映画を見てもらいます。この映画は1回だけしか上映しません。私は作品を見てもらう前にあまり多くを語りたくないので少しだけ話をさせていただきます。次の映画は今見てもらった映画の次に作った作品です。『シュベカター』の持つ視覚的なスピードには大変満足していました。しかし、私はもっと単純な形式、映画の核心に触れる最も単純な形式を求めていました。

映画で「今」という瞬間を作り上げる

私は人生が短いということを知っています。それは決して引き伸ばすことはできない。けれども速く生きるということはできると思います。そうして人生をより大きなものにできるとは思うのです。「今」という瞬間において、私達は自分が生きているということを実感するのです。音楽において「今」という概念を表現する最も単純な形は、ドラムを一叩きすることです(クーベルカ氏、机を叩きながら「今!」「今!」と連呼する)。演劇の場合は音を鳴らすことによって今を表現するでしょう。映像ではダンサーが踊りを踊るというようなことで表現するかも知れません。自然界は我々に圧倒的な「今」の感覚を音と視覚、両方で同時にもたらします。雷鳴と稲光の関係がそうです。

今の話はここでやめて、私がアフリカにいたときの話をちょっとしましょう。私はある小さな村に住み、何か劇的な瞬間を待ち望んでいました。エクスタシーというのは建物が作り上げられるようにして作られるのです。彼らは一日中リズミカルな劇を繰り返し演じていました。そこでは特に太鼓の音はしていませんでした。日がくれると、村の人々は全員村からでて、地平線が見えるところまで繰り出していきました。そして地平線に太陽が沈んでいくのをみんなで見ていました。

太陽が地平線に触れると、太鼓がドン、と一度だけなりました。全ての太鼓の打ち手はその瞬間に備えていたのです。太陽が完全に地平線に隠れると、ドンドン、と今度は2度太鼓がなりました。これを見て、私は泣きました。なぜかというと彼らも私と同じ願望を抱いていたからです。つまり、「今」という瞬間を作り上げるという願望。

その瞬間を彼らが作り上げるのにはまず太陽そのものが必要でした。私の場合には映画です。それは単なる光の瞬きとちょっとした音によってなりたっています。しかしそれには速さがあります。彼らはその瞬間を作りだすことが一日にたった一度しかできません。私は一秒間に24回その瞬間を作りだすことができるのです。アフリカで私がそういった経験をしていた時には既にこの作品を作っていました。

光、闇、音、沈黙

次の作品は4つの根本的な映画的要素によって成り立っています。光、闇、音、沈黙。これらを4つの縞をなすように作り上げました。黒味と透明なリーダー、そしてその真っ白な画面と同期するホワイト・ノイズと完全な沈黙。まず私は楽譜を書きました。それをもとに、全く原始的に、ハサミや糊を使ってこの映画を作りました。映画というのは自分の手で触れながら作り上げていくことのできる最後のメディアなのです。私はこの映画を自分のエクスタシーのために、自らを強くするために作りました。では、見てください。

 ─『アーヌルフ・ライナー』上映

今日は皆さんご静聴ありがとうございました。

(1997年3月3日、イメージフォーラムにて)


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