かえっておいで。
田舎から出てきて、まもなく1年。毎日は慌しく、気づけば、ひとり。部屋には重くて空っぽな時間が流れています。その重さから抜け出して、空っぽとは違う身軽さで立つことの出来る私に“かえって”いくため私は、踏み出してみました。
奇体服
きたいふく着たよきたいふく。はいずり回ってどっすんばったん、着る着る。機能不全で脱着不可、廃センス!廃ファッション!きったない服のカッタマリ!
鬼やんま
タイトルの“鬼やんま”は、九州北部の山中に生息する珍しい生物。絶滅が懸念されているというが、その実はすててこ姿の老人である。ある日、側溝にはまりこんだ“おにやんま”を発見し、母と兄妹で家へ持ち帰るというところから、これまた荒唐無稽なお話しが展開するのだが、作者は実家の家族のみならず、山中に生息する“鬼やんま”の群れを、知りあいを総動員して演じてもらっている。風を送ると裏返ったゴキブリのように足をばたばたさせる“鬼やんま”の可笑しさと、それを真剣に演じる祖父(だろう)の演技は絶妙。この作者のユーモラスな持ち味が、ここでもあざやかに発揮されている。
一日四季ツアー
もし一日で4つの季節を感じられたら、という思いが以前からあったので、それを映像化してみました。実際の映像と絵を合わせて現実と非現実の世界を創作しました。それでは、一日四季ツアーを開催いたします!!
夜中の三時
夜中に目覚めてしまった男が、温かいお茶を前に、ぼんやりと空中を眺めている、午前の3時。
Rules
高架線下に住まう書生は、フレームに区切られたまま、規則のフレーズに牛耳られた厳しい生活を自らにかしている。12月27日に失踪した母親の亡霊と対峙し、規則をまもりとおした暁に彼女との再会を夢みながら、虚空をにらみつづける書生の心象風景に、口径標準ズーム。宮沢賢治の試みのように転成する作品作りをコンセプトに、隠喩にみちた映像の遊戯をこころみた。信用しない針葉樹の精霊を、サァサァ手榴弾で粉砕せよ。
四角い眼
テレビニュースの中の希薄な死。夕食のローストビーフは、タスマニア産で切りにくかった。夢をみた。リアルなやつ。死のイメージが渦巻いていた。でもそれってホントはテレビの中の出来事。
ボンと私
私にとって全く知らない人を訪ねることは、今までの人生の中でもベスト5い入るくらいの勇気を振り絞った出来事でした。しかしこの出会いが素敵なきっかけとなりいろいろなことを学びえる事ができました。そんな気持ちを今の自分の精一杯の力で表現しました。
孤島の歌
死の近い父の前で、明日、私は演技をしなければならない。今23時57分。あと三分で明日になる。私は映写機の前から動けない。
ちくしょうべん
九州に住む家族を“おれおれ詐欺”にひっかけようと電話をかける作者。カネの無心ではない。チンチンをドアに挟んでから、小便が止まらなくなったという荒唐無稽な話をでっち上げるのだ。電話を聞いて、笑いながらも心配する母親。すぐに病院に行くよう説得する父親。九州弁によるやりとりがなんともユーモラスである。画面はほとばしる水のように便器に溢れる大量の小便や、田んぼの真ん中に据えた便器に座る作者に、消防のホースから放水された水がざんぶと浴びせられるさまなどが次々と映しだされる。馬鹿馬鹿しさをまっとうに追求する作者は、ちまちました日常を笑い飛ばすかのようだ
lose, lost, lost
いつの間にか置いてけぼりをくらっちった。友人から、恋人から、兄弟から、両親から・・・誰からでもいいが、置いてけぼりをくらっちっても、「置いてけぼりをくらっちった〜」なんて言っても、何も状況は変わりません。なぜこんな作品を作ったのか、なぜ奥多摩の廃村を選んだのか、あまり覚えていません。撮影の時に私のバックパックに奥多摩の変な蜘蛛が紛れ込んでいたみたいで、一週間後うちのお風呂で死んでました。孤独な死。
セツナ
目が覚めた男はここがどこなのか分からない。ただ分かっていることは、自分がいた世界とは違うということだけである。 時折、男は断片的に自分がいた世界のことを思い出す。この世とあの世の間のような少しおかしな世界を自分なりの映像表現でみせたい。
幸せな記憶
私は昨夜食べた食事を思い出す事ができません。おぼろげながら思い出せるのは、赤いようなパスタだった事。つまり、おそらくナポリタンだったのです。しかし、私は今まさに、ナポリタンを食べている事に気づきました。つまりそういう映画です。