モフセン・マフマルバフ
1957年5月29日、テヘランの貧しい家庭に生まれる。彼は8歳から片親である母親の生活を支えるために働き始め、17歳までにはベルボーイ、空港業務員等と13種類にも及ぶ仕事を経験。また15歳のときから地下イスラム市民軍組織を形成し、17歳のときに警察の武装解除を試み、銃撃され逮捕された。長期間の刑務所拘留が予想されたが、1979年に改革が起きて短期間で出所。4年半におよぶ投獄生活は彼に様々な影響を与えた。彼は政治から遠ざかり、文学や芸術、特に映画に深い興味を持つようになる。イラン社会に欠如しているのは文化的活動であり、それゆえ社会がダメになっていると考えて、民主主義への革命的なメッセージ性の強い芸術作品を次々と発表する。彼の文学活動には、美術研究、小説、短編小説、脚本があり、世界各国で出版。映画においては、脚本、監督、編集を担当し、ほかのイラン人監督のためにも多数の脚本、編集を手掛けた。彼の映画は、1000以上もの世界各国の国際映画祭に招待され、数々の賞を獲得。1996年より彼はマフマルバフ・フィルム・スクールに専念するために一時的に映画製作を中止。マフマルバフ・フィルム・ハウスを設立し、彼の三人の子供たちを含め、選りすぐられた生徒たちの映画をプロデュースしてきた。しかし、2001年にその沈黙を破り、カンヌ映画祭コンペティション部門で近年のアフガニスタンの状況を鋭く切り取った『カンダハール』(2002年日本公開)を発表し、センセーショナルを巻き起こした。

マルズィエ・メシュキニ
1969年テヘラン生まれ。モフセン・マフマルバフの二番目の妻。彼女は4年間マフマルバフ・フィルム・スクールで映画製作について学ぶ。モフセン監督『サイレンス』『キシュ島の物語』より「ドア」、サミラ監督『りんご』『ブラックボード―背負う人―』の助監督を経て、『私が女になった日』で監督デビューを果たした。
サミラ・マフマルバフ
1980年2月15日テヘラン生まれ。事故死したモフセンの先妻との長女。モフセン・マフマルバフ監督作『サイクリスト』に出演。14歳で高校を退学し、4年間マフマルバフ・フィルム・スクールにて映画を学ぶ。2本のビデオ映画を監督したのち、初の35mm長編映画『りんご』を監督。弱冠18歳にして1998年カンヌ映画祭コンペティション部門に選ばれ、将来有能な世界最年少監督として世界的に脚光を浴びた。1999年には2作目となる映画『ブラックボード―背負う人―』を監督。この作品が2000年には再びカンヌ映画祭コンペティション部門に選ばれ、審査員賞を獲得した。
メイサン・マフマルバフ
1981年7月29日テヘラン生まれ。先妻との長男でサミラの弟。13歳の時高校を退学。4年間マフマルバフ・フィルム・スクールにて映画を学ぶ。専門はスチール写真と編集。モフセン監督『サイレンス』、サミラ監督『りんご』『ブラックボード―背負う人―』、マルズィエ・メシュキニ監督『私が女になった日』のスチールを担当。また2000年には初監督作品としてドキュメンタリー映画『メイキング“ブラックボード”』を発表した。

ハナ・マフマルバフ
1988年9月3日テヘラン生まれ。先妻との次女でメイサンの妹。一般の学校に2年間通った後に、4年間マフマルバフ・フィルム・スクールにて映画を学ぶ。『りんご』『サイレンス』の脚本監修、『私が女になった日』の脚本監修とスチールを担当。また『パンと植木鉢』ではモフセンの娘役で出演した。1997年には短編映画「The day my aunt was ill(私の叔母が病気になった日)」を監督。家族の支援のもと、監督への階段を着実に登っている。

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