アトム・エゴヤンという変わった名前は、80年代後半から数々の国際映画祭受賞を通して我々のもとにも伝わってきていた。日本での劇場公開は97年の『エキゾチカ』(94年)まで待たねばならず、劇場の入りもけっしてよくなかったと記憶するが、思わぬ異常な世界にすっと引き込んでしまうエゴヤンの演出力とねっとりしたまなざしの力(独特な奇妙な視線劇)にはすっかり魅了されてしまった。
 カイロ生まれのアルメニア系カナダ人という経歴も特異といえば特異だが、人の心のトラウマに入り込みじっくりトレースしながら深く下降していくという、その揺るぎない姿勢になにより圧倒された。しかも、あのひどく優雅なストリップシアターでスクールガールの制服を着たクリスティーナがレナード・コーエンの低音に乗せて手話みたいな振付けで踊り出す瞬間などたまらなく官能的でもあった(それをまた裏からハーフミラーごしにDJがじっと覗いていたり、そのハーフミラーが冒頭の税関シーンを連想させるのもエゴヤンらしいところ)。
 その後、スクールバス事故のPTSDにハーメルンの笛吹き伝説を絡めた『スウィート ヒアアフター』が97年のカンヌ国際映画祭でグランプリをとったこともあって、『フェリシアの旅』『アララトの聖母』と立て続けに日本でも新作が公開されたが、エゴヤンの魅力は本当に理解され、受け入れられたのだろうか? 癒し系とか社会派とかその都度つけられるキャッチフレーズはエゴヤンのような作家には単純すぎる。エゴヤンの世界はもっと面白いし、もっとわけがわからないものだ。ひどく真面目なのにどこか避けがたく変態的というアンビヴァレンツ、二重三重に屈折していく愛情、『エキゾチカ』の卵や『スウィート ヒアアフター』の毒グモみたいな無気味な細部。あるいはそこから生まれる気味悪さと気持ちよさの共存。
 エゴヤンは記憶とまなざしの作家だ。そして抑えがたい愛の作家だ。彼の作品ではつねに、失われた家族、トラウマ的記憶、屈折した愛情、といった絡み合った主題が周到に細部にちりばめられる。『エキゾチカ』におけるスクールガールの制服、ピアノレッスン、空虚な草原、ペットショップ、卵と妊娠とベビーシッター、ロメオとジュリエットのバレエといった配置と結びつき。『スウィート ヒアアフター』の毒グモと気管切開、ハーメルンの笛吹きと訴訟弁護士、スクールバスの沈没と近親相姦、『フェリシアの旅』のアイルランドの草原と堕胎手術の麻酔、古いTVCMやサロメ、被害者少女たちのビデオ画像、球根といったイメージの連関。
 自らのルーツに触れアルメニア系の4世代を描いた傑作『アララトの聖母』でも、アルメニア人の知られざる大虐殺の史実(を映画化し得ないこと)のみならず、劇中でサロヤンなる監督(撮影監督サロシーとエゴヤンの合成?)が撮影中の同名映画、ラフィが撮る日記的なデジタルビデオ、アルメニア出身の画家ゴーキーの家族(母と息子)とトロントのゴーキー研究家(二人の夫の死と近親相姦的な異父兄妹)、税関検査官と息子の美術館員とトルコ系のゲイの恋人、そしてサロヤンが一日一粒食べるザクロの実、未現像のフィルム缶など、すべてが呼応しながら心の襞をトレースし無意識の底へ底へと降りていく感じだ。
 一見関係ないものが蜘蛛の巣状につながって隠された絵柄を描き出すエゴヤンの世界は、完成図のないジグソーパズルのように見通しがつかないし、ミクロとマクロがごっちゃになって遠近法が狂っていく。そこでは複数の人間関係やストーリーが(どれがメインでどれがサイドストーリーかもわからぬままに)紡がれていき、ときに交錯し、ときに交わることもなくクロスカッティングされていく。忘れがたい一瞬は倒錯的な愛や苦いエクスタシーへと変貌し、心の旅路の果てにはいつでも解放感でなく「悲しみと空白を伴う、パズルの最後の一片」(滝本誠)が待っているのだ。

 フィルモグラフィには載っていないこともあるが、エゴヤンは『エキゾチカ』完成後の95年に『アーシルの肖像』という5分の実験的な短編ビデオ作品を撮っている。BBC「ピクチャーハウス」シリーズのアートドキュメンタリーで(ブラザーズ・クエイの人形アニメを製作するアトリエ・コーニンクのキース・グリフィス製作)、その実験映像的手法はエゴヤンが単なる演出家ではなく、既成の話法を超えて自らの映像を作り出す独創的なアーティストであることをよく表わしている(現代美術の領域でも映像インスタレーションを発表し2001年のヴェネチア・ビエンナーレではJ・サルメントと共作で出品している)。
 『アーシルの肖像』の画面にはビデオカメラに手をのばしたり近寄ったりする幼い男の子がアップで映る。再撮影なのか画質の荒い映像だが、指の指紋まで見えるほどのアップだ。アルメニア語の女性(妻のカーンジャン)の声を、英語の男性が訳す(君の母親は飢えで死んだ、などゴーキーの伝記的事実)。そしてアーシル・ゴーキーが何度も描いた有名な「画家とその母の肖像(芸術家と母親)」の1枚が出てくる。
 いうまでもなく後の大作『アララトの聖母』(2002年)の原点といえる短編だが、同時にこれはまったくのプライベートフィルムでもある。メンデルスゾーンのピアノ曲を弾くイヴ・エゴヤン(『エキゾチカ』のシューベルトの即興曲をはじめ、たびたび劇中音楽の演奏に参加)が監督の実の妹であることも含め、このプライベートな小品にエゴヤンの本質を垣間見ることができる。画家ゴーキーは『アララトの聖母』を貫くモチーフだが、アーシルはエゴヤンとカーンジャンの最初の息子の名でもあり、その子がここに映っている。エゴヤンの世界ではすべてが呼応し重なりあっていくが、それ以上に重要なのは、モチーフがつねに深いところで監督自身のパーソナルな体験や感覚に接続していると思われることだ(もっとも卑近な例では、監督の両親が89年の大晦日に火事で家を失ったときの経験から91年の『アジャスター(損害賠償調停人)』が作られたが、『アララトの聖母』もきわめて屈折した自伝と見ることさえできなくない)。作品が絵空事のフィクションではなく深く作者の内部に錨を降ろしているという独特な私的ニュアンスを感じさせるのだ。そのプライベートな深度ゆえにエゴヤンの映画には奇妙に痛々しい濃厚さが感じられるのではなかろうか。しかもそうした世界を強靱な構成力で計算し尽されたフィクションに仕立て上げてしまうのが非凡なところだ。
 エゴヤンの映画はいつも見るものを酔わせてくれる。ただストーリーを語ったり何かを主張する前に、映画とは陶酔的でめくるめく不思議な体験だと言いたいかのように。日常と異常のはざまに深い謎を仕掛けるミステリアスでメランコリックな作家アトム・エゴヤンの尋常ならざるディープな世界が、今回の「アトム・エゴヤン映画祭2004」で真に発見されることを心から願いたい。