アルメニア亡命者の両親に生まれ、その出自を拒否した幼少時代
 アルメニアの亡命者だった両親(Joseph and Shushan Yeghoyan)の長男として、1960年7月19日、エジプトのカイロに生まれる。両親はカイロで家具の販売を営んでいたが、どちらも芸術に嗜好があり、若い頃には絵画を学んだこともあった。「アトム」という風変わりな名前は、両親が「核反対」の象徴として名付けたと言う。
 3歳のとき、妹イヴを含む一家4人でカナダに移住し、名前をシンプルなEgoyanに変える。両親は、アルメニア人コミュニティの存在が良く知られるモントリオール等ではなく、なぜかブリティッシュ・コロンビアの州都ヴィクトリアを新天地に選んだ。幼少期のエゴヤンは、自らの出自であるアルメニア文化を拒み、両親の母国語を話すのも聞くのも頑なに嫌がったと言う。十代の頃は、戯曲を読んだり書いたりすることに熱中し、特にサミュエル・べケットとハロルド・ピンターに強く惹かれた。この頃、ホテル従業員として働くが、後にエゴヤンは、映画製作とホテルの部屋をメイキングすることは似ている、と言っている。
 18歳でトロントに移り、トロント大学トリニティカレッジで、外交官になろうと国際関係学を学ぶうち、エゴヤンは幼い頃に拒絶したアルメニア文化を意識しはじめ、アルメニア学生協会に参加する。この頃、映画に関心を抱き、戯曲を学んだ経験を生かして、19歳で初めて短編映画『ハワードの送別会』(79)を製作。この第1作には、テクノロジーが代替するコミュニケーションとエモーショナルな孤独といった現在のエゴヤンのモチーフがすでにあらわれており、カナディアン・ナショナル・エキジビション・フィルム・フェスティバルで賞を獲得した。その後は、学業以上に映画製作に打ち込み、『After Grad with Dad(父と卒業後に)』(80)『ピープショー』(81)と短編作品を発表し、最終学年にはオンタリオ・アーツ・カウンシルの援助で『オープンハウス』(82)を製作する。

映画に目覚め、カルト的人気の若手監督に
 大学卒業後、トロントのタラゴン劇場に戯曲作家として参加するが、舞台より映画に惹かれていき、学生時代の短編『オープンハウス』が高く評価され、CBC(カナダ国営放送)でテレビ放映されたのを機に、映画製作を本格的に開始。オンタリオ・アーツ・カウンシルとカナダ・カウンシルの援助により『Next of Kin(親族の次)』(84)で長編デビュー。ある青年が、ひょんなことから、息子が行方不明になっているアルメニア人家族の存在を知り、やがて青年はその行方不明の息子のアイデンティティを代替して家族の一員になる、という内容のこの映画は、マンハイム映画祭で賞を受賞したほか、初長編にしてジニー賞(カナダのアカデミー賞)の監督賞にもノミネートされるという画期的評価を得た。続く『ファミリー・ビューイング』(87)は、見事、モントリオール映画祭のオープニング作品に選ばれ、ロカルノ映画祭ではエキュメニック審査員賞、トロント映画祭では最優秀カナダ映画賞を受賞、ジニー賞では作品・監督・脚本を含む8部門の候補となった。モントリオール映画祭では最優秀作品に選ばれた『ベルリン・天使の詩』のヴィム・ヴェンダースが「この賞は『ファミリー・ビューイング』のアトム・エゴヤンに与えられるべきだ」と発言して賞を辞退し、大きな話題を呼ぶとともに、各国の映画祭やビデオ流通によって欧米の映画学生の間でカルト的な人気を得た。
 第3作『Speaking Parts(台詞のある役柄)』(89)は、カンヌ映画祭の監督週間に出品され、3巻目の上映中にフィルムが燃えるというアクシデントで長時間上映が中断しながらも、高い評価を得た。4作目の『The Adjuster(損害賠償調停員)』(91)もカンヌの監督週間に出品。モスクワ映画祭では審査員特別賞、トロント映画祭では最優秀カナダ映画賞を受賞。エゴヤンにとって全米で幅広く公開された初の作品となった。さらに、アルメニアで撮影を一部行った『Calendar(カレンダー)』(93)は、ベルリン映画祭フォーラム部門においてヨーロッパ芸術映画連盟賞の最優秀作品賞に選ばれ、エゴヤンは世界の批評家達に来るべき才能の最右翼と認められると同時に、欧米を中心とした映画ファンたちが熱狂する監督になった。

世界が新作を期待する映画監督、そして国際的なビジュアルアーティストへ
 エゴヤンが、メインストリームで国際的な注目を集めたのは、カンヌ映画祭の国際批評家連盟賞を受賞し、作品・監督を含むジニー賞8部門に輝いた94年の『エキゾチカ』である。アメリカや日本でも配給され、各国でロングランヒットを記録し、多くのファンを獲得した。続いて、ベストセラー作家ラッセル・バンクスの原作を映画化した『スウィート ヒアアフター』(97)を発表。カンヌ映画祭のコンペ部門に出品され、審査員グランプリ、国際批評家連盟賞、エキュメニック賞をトリプル受賞したこの作品は、全世界で高い評価を受け、アメリカ・アカデミー賞では監督賞と脚色賞の2部門にノミネートされた。続くウィリアム・トレヴァー原作の『フェリシアの旅』(99)も、カンヌ映画祭コンペ部門に再び選ばれ、ジニー賞4部門を受賞。そして、新作ごとに、その才能を証明しつづけたエゴヤンは、いつか必ず映画化しなければと考えていた第1次対戦中のオスマン‐トルコによるアルメニア人虐殺を中心に据えた大作『アララトの聖母』を2002年に発表。現在は、ベストセラーとなったルパート・ホルムズの小説を原作に、長編第10作目となる『Where The Truth Lies(真実はどこに)』に取り組み、エゴヤンならではのサスペンスに期待が高まっている。
 エゴヤンは、長編映画をつくりはじめてからも、TVや短編、舞台、そして多彩なビジュアルアートを手がけている。興味深いTV作品には「ヒッチコック劇場」や「新トワイライトゾーン」「13日の金曜日」などのエピソードの演出や、IRAと関わりを持ったアイリッシュ系カナダ人ボクサーのドラマ「In This Corner」、実在のNHLホッケープレイヤーを描いたヒューマンドラマ「Gross Misconduct」等である。エゴヤンはかつてインタビューで「TVの仕事を通して、私は“家族向け(ファミリー・ビューイング)”ということを学んだ」と言っている。
90年以降には、エゴヤンに深く影響を与えた劇作家べケットの「クラップの最後のテープ Krapp's Last Tape」を名優ジョン・ハート主演で映像化した作品やフィリップ・グラスの音楽を自らのギターと映像でコラボレートした「Diaspora」、日本でも開催されたヒッチコック展でのインスタレーションなど創作活動は多岐にわたっている。
 また、かつてクラシック・ギターを学んでいたエゴヤンは、クラシック音楽にも造詣が深く、96年にはカナディアン・オペラ・カンパニーによるオペラ「サロメ」を演出。また98年には、エゴヤン脚本のオリジナル・オペラ「Elsewhereless」をカナダ人作曲家ロドニー・シャーマンで演出。英国の革新的作曲家ギャヴィン・ブライアーズの「Dr.Ox's Experiment」をロンドンのイングリッシュ・ナショナル・オペラで演出している。
 現在、トロントに妻のアルシネ・カーンジャン、息子のアーシルとともに暮らす。

アトム・エゴヤン 公式Webサイト
http://www.egofilmarts.com/