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1930年生まれのアメリカの実験映画作家にして、ハリウッド映画界のスキャンダラスな大著「ハリウッド・バビロン」でも知られるケネス・アンガー。
その作品はアンダーグラウンド映画の神話そのものであり、魔術、バイオレンス、夢、ドラッグ、ゲイをテーマに、半世紀にわたり積み重ねられた万華鏡のような映像美はジャン・コクトー、ミック・ジャガー、デヴィッド・リンチ、デニス・ホッパーら、ジャンルを越えた大きな影響を21世紀のアーティストにも与え続けています。

 ケネス・アンガーは1930年(文献によっては1932年とするものもある)、カリフォルニアに生まれている。祖母がハリウッドで衣裳係であったことから、何本かの映画に子役として出演しており、この幼児体験が後の映画制作の中で大きな影響を与えているように思われる。この中で最も有名な作品が『真夏の夜の夢』(監督マックス・ラインハルト/ウィリアム・ディターレ、1935)で、撮影は1934年、アンガーが四歳のときに行われた。

 アンガーの早熟さは、自己の処女作とされている『フェルディナンド、ザ・ブル』を1937年に制作したことからも窺えるが、これより1945年の『思い切った譲位』にいたる七本の作品を制作しているが、今では"失われた映画"となっている。アンガー自身はこれらを、習作とみなしていて深い愛着を見せていない。


「花火」1947
「花火」1947

 1947年、アンガーは『花火』を完成する。これは現存するアンガーの最古の作品で、アンガー十七歳の時のものである。ジャン・コクトーは、この『花火』をシュールレアリズムを受け継ぐものとして絶賛している。

 ケネス・アンガーはその製作ノートの覚え書きの中で次のように語っている。

 ──主人公は自分の夢に満足できず、光を求めて夜の世界へと出ていき、針の目に吸い込まれてしまう。夢のまた夢、彼はより空虚な気分でベッドに戻るのだ。

 この二年後の1949年には、アンガーは二つのプロジェクトに取りかかっている。まず、彼がハリウッドの'20年代、'30年代に対してオマージュを捧げた『プース・ウーメン』である。この作品自体は未完に終ったが、その中の一部を『プース・モーメント』として完成させ、1949年から1963年まで作品の配給を行った。その後、いったん、アンガーは配給リストから『プース・モーメント』を外したが、1970年代初めに、サウンド・トラックを入れ直して、再び配給を行っている。

「プース・モーメント」1949

 アンガーの制作の一つの特徴は、ハリウッドに始まり、パリ、イタリア、ニューヨーク、サンフランシスコなど、世界各地を転々としていくことにある。1950年に、アンガーは創作の場をパリに移す。ここで『ラビッツ・ムーン』を35ミリの白黒フィルムで撮り始めるが、経済的な理由から完成を見ないままに終わる。

 現在、我々が目にするのは、撮影から約二十年を経て、'70年代初めに編集され、題名を英語に変更(オリジナルは仏語の題名がつけられていた)されたものである。まず、1972年に16分バージョンが公開され、その後、1979年にサウンド・トラックも変えられた八分の、より短いバージョンになった。

「ラビッツ・ムーン」1950.1978

 アンガーは白黒のオリジナル・フィルムを青いフィルターを通してプリントし、ピエロが月にあこがれる姿をファンタジックに描いている。

「ラビッツ・ムーン」1950.1978

 翌年(1951年)アンガーは、ジャン・コクトーのバレエ、「若者と死」を35ミリで映画化することを企画し、その資金調達のために16ミリでアンガー版『若者と死』の試作を撮った。ここでも、アンガーはプロデューサーを見つけられず、35ミリ版の制作は断念せざるをえなかった。

 1953年に、今度はロートレアモンの「マルドロールの歌」の映画化を試みたが、資金難のためリハーサルとテスト撮影より先には進まなかった。


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